活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

キリシタン版とジョアン・ロドリゲス

2011-03-08 15:07:29 | 活版印刷のふるさと紀行
渡辺京二さんは『バテレンの世紀』の「活版印刷の伝来」の中でキリシタン版出版の舞台裏で
編集作業に当った人を紹介しています。
 養方軒パウロやその子洞院ビセンテあるいは不干斎ハビアンです。
 さて、この三人はひとまず置いておいて、私はロドリゲスも「印刷」と深くかかわったことを
指摘したいと思います。

 ロドリゲスがどこで生まれたのか、日本にいつ来たのかははっきりしません。1580年にヴ
ァリニャーノが最初に日本にイエズス会の巡察師として来たときに臼杵や府内につくった学院で
神学生として勉強しています。まだ、若かったのです。規定課程を終えた彼は八良尾のセミナリ
ヨでラテン語の教師をしていましたが、やがてヴァリニャーノの秘書役をつとめます。

 ヴァリニャーノは秀吉や各地のキリシタン大名との折衝のとき、『日本史』で有名なフロイス
を使っていましたが、病弱なフロイスよりも、この若くて、外交力にたけて、日本語も達者な
ロドリゲスを起用するようになったのです。その後、徳川家康の貿易顧問もやりましたし、マカ
オやインドから来たポルトガル人商人との貿易交渉にも重用されるようになります。
 
 パウロたち三人についてもいえることですが、日本人の修道士の語学力はさしたるものではあ
りません。ラテン語やポルトガル語に通じているロドリゲスが忙しい時間をやりくりして、しば
しば、編集や校正作業に駆り出され、手伝うようになります。

 彼をおいてキリシタン版で有名な1603年発刊の『日葡辞書』や1608年の『日本大文典』
の編集に携わる人はいなかったはずです。
 とくにマカオで1620年に出た『日本小文典』やそのあとに出た『日本教会史』の編集では
相当、力を発揮したに違いありません。マカオに追いやられていた少年使節の一人、原マルチノ
も手伝っていたでありましょうし、もちろん印刷はドラードが担当しました。

 私は『活版印刷人ドラードの生涯』(印刷学会出版部)の最後にこう書きました。
―一六二〇年七月三日、邦暦の元和六年六月四日ドラードはついに昇天した。五十三歳だった。
ジョアン・ロドリゲスが終油の秘蹟を授け、枕もとで原マルチノが長い間祈りを捧げていた。
ドラードが手を伸ばせば届いたであろう小卓の上に、師ヴァリニャーノの形見の聖書と『原マル
チノの演説』と『日本小文典』の校正刷りが置かれていた。―


 




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする