活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

秀吉は「印刷」にどれくらい興味があったか

2011-03-10 10:15:28 | 活版印刷のふるさと紀行
人間、幼いころ得た記憶や印象は成人してもなかなか拭い去ることが出来ないような気がします。
 私の場合、豊臣秀吉というと、日吉丸時代、針売りに疲れてに岡崎の矢矧橋(やはぎばし)の上に
寝ていて蜂須賀小六に拾われた姿を思い浮かべてしまいます。


 その日吉丸が太閤にたどりつくまでの知恵の働かせ方や武勲の数々はよく知られているところで
すが、その彼がどのような形でインテリジェンスを磨いたのかはあまり語られていません。
 話は飛びます。秀吉は1592年、日本の遠征軍が朝鮮からもたらした銅活字と活字版を手に入れ
ます。それが後陽成天皇に贈られ、勅版本の刊行にむすびついたというのが日本の「印刷文化史」の
定説になっております。たまたま、同じころ、ドラードたちが加津佐や天草でヨ^ロッパ仕込みの
活版印刷を始めております。

 それはそれでよいのですが、私は「秀吉がいかにも最初から印刷に興味があったように」考える
のは疑問だと思います。朝鮮で印刷道具を見つけて秀吉に送ったのは、小西行長だったと思います。
なぜなら彼ならヴァリニャーノたちと交流があり、ドラードたちの「活字を使った印刷」について
予備知識があったと思われるからです。武器ならいざ知らず、小さな活字が転がっていても興味を
持つような知的な武将は当時、いなかったはずです。


 また、「秀吉と印刷」について、こんな想像もできます。
 グーテンベルクの活版印刷の発明が1450年ごろ、ヴァリニャーノがはじめて織田信長に会った
のが1581年、おそらくヴァリニャーノは、そのとき、信長に「印刷の便利さ」をご進講申し上げ
たのではないでしょうか。私はその場面を『ドラードの生涯』に書きました。
 もし、そのとき、木下藤吉郎がそばにいて、「サル、よう見ておけ、これは版木を使ったもんじゃ
ないぞ」などといわれていたとすれば、秀吉の頭に「活字を使った印刷」が刷りこまれていたかも知
れませんが。私の勝手な日本印刷史だったら、小西行長の機転と後陽成天皇と西洞院時慶たち側近の
インテリジェンスが日本最初の活字版印刷を生んだとしたくて、秀吉はたまたま、「時の太閤」扱い
で済ませます。































































































































コメント
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