活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

伏見版木活字の話

2011-03-22 14:26:35 | 活版印刷のふるさと紀行
日本にもたらされた李朝活字がどうなったのかは、比較的はっきりしています。
加藤清正によって熊本城の書庫の奥深く収蔵されたという説もありますが、15
93文禄2年に秀吉が御陽成天皇にゴッソリ献上されている証拠が残っています
からそんな筈がありません。

 天皇の陪臣、西桐院時慶卿(にしのとういんときよしきょう)が天皇の命令で
9月から李朝活字を使った『古文孝経』の印刷にかかり、年末には刷り終えたと
いう記録を残しています。ところが、この現物は残っていないし、その後、李朝
活字の行方もつかめません。ひょっとして熊本城の方がアトかも知れません。

 そして、ここで登場するのが、本好きで活字を使った印刷に興味しんしんの家
康です。彼は行方不明の李朝活字を追うことなく、自分に「活字開発」を課し、
自分で「出版」をすることを考えたフシがあります。彼は活字だけではなく、朝
鮮本、つまり、李朝の活字本を精力的に収集します。それも関ヶ原の戦い前後の
ことです。

 出版にあたって家康はいきなり金属活字には行かずに、「木活字」から入ります。
足利学校のの校長にあたる三要元佶を京都伏見に呼び、『孔子家語』を1599、
慶長4年に刊行させます。同じ年『三略』、翌年、有名な『貞観政要』10巻8冊
という具合で、いずれも伏見版木活字が使われております。


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李朝活字も行方知らず

2011-03-22 10:14:02 | 活版印刷のふるさと紀行
前々回とその前で秀吉、家康と活版印刷について書きました。秀吉と家康で
は印刷への取り組み方が違う、秀吉はたまたま、朝鮮から李朝活字や活字版
がもたらされたときに太閤だった。みずから「印刷」に関心を持ち、印刷」
に取り組んだのは、家康だったのではないか、と。
 秀吉にしろ、家康にしろ、時代のトップが印刷文化史に名前が出てくるのは
日本人としては誇るべきことですし、この二人を日本の活版印刷のことはじめ
に結びつけて研究していらっしゃる方の多いことも心強いかぎりです。
 私が李朝活字を持ち帰ったのは小西行長と決めつけたのはどうか、「第二軍
として同時期に首都、漢城(ハンソン、いまのソウル)に入城した加藤清正、
その人である」という指摘もいただきました。

 秀吉軍が入城したとき、李朝の王、宣祖は脱出していましたが、歴代の王は
金属活字の鋳造を推進し、活版印刷を国家的事業に位置付けていました。
 神田川大曲塾でソウルの国立中央博物館を見学したときも「グーテンベルク
よりも三〇〇年も前に朝鮮半島では金属の活字印刷をしていた」と学芸員は
鼻たかだかでした。

 しかし、日本のキリシタン版の活字の行方が杳(よう)として知られぬように、
李朝活字も現存していません。まさか、「秀吉が全部持ち出した」わけではあ
りません。たしか、博物館に一字だけあると聞ましたが、私たちは見ておりま
せん。
 凸版印刷の駿河版活字の中に李朝活字が混じってはいないかと、韓国から
調査団が来たこともあったようです。

 

コメント (1)
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