活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

開版事業にはタイミングがある

2011-04-01 15:31:48 | 活版印刷のふるさと紀行

 為政者の家康が出版に噛んでいた点からいえば『大蔵一覧集』や『群書治要』はいまふうにいえば
政府刊行物でした。
 日本の活字印刷がそこからいきなり、民間のアート出版ともいえる嵯峨本に辿りついたわけではあ
りません。活字版をつかっての開版事業は秀頼も手掛けましたが、以前から印刷に取り組んでいた寺
院が活字版に着目しないわけがありません。
また、民間でも目をつける人が人が出てきます。 そうして寺で開版されたのが寺院版、民間で開版
されたれたのが印刷史の上では町版とか坊刻本とか呼ばれています。
 
 突然ですが、私は人が「出版」を考えるタイミングに共通なものがあると考えます。大きく括りま
すと、それは時代や人がなんらかの≪転換点≫にさしかかったときです。
 
 秀吉にしても家康にしても、自分の環境が大きく変わったとき、秀吉は朝鮮から撤退したとき、
家康は駿府に引退したときでした。もっといえば、戦国時代が終わりをつげ、江戸時代が始まろうと
する世の中全体が大きく変わろうとしているときでした。
 明治維新後の出版状況もそうでしたし、第二次大戦の終わった日本の戦後の「出版ブーム」も然り
でした。

 嵯峨本の生みの親ともいうべき角倉素庵(了以の子)もそうした環境に置かれていました。
父祖伝来の生業は医業でしたが、父、角倉了以・素庵の代では押しも押されぬ大貿易商でありました。
角倉了以は朱印船貿易で巨利を手にしましたが、よく知られているように高瀬川や大堰川の開削事業
でも貢献しました。素庵はこの父の貿易・土木事業を引き継いで活躍しました。
 そして隠居した時点で彼の目は「出版」に向けられます。これが彼にとって一つの≪転換点≫、
タイミングだったのです。





 

コメント
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