活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

木活字本も消える運命に

2011-04-11 10:57:31 | 活版印刷のふるさと紀行
拡大・縮小を光学的に、あるいはデジタルでできなかった時代の嵯峨本づくりの
大変さには同情してしまいます。
原寸処理という点では「彫字作業」でも「版下づくり」と同じです。

 前出の森上 修先生は二字とか三字続きの連続文字の場合を例にして
 「こうした類似の字形を版下書きに頼らず、何の苦もなく版下なしで直か彫りが
できる職人衆が同じ工房内にいて…」と想像しておられます。
 
 たしかに、私はベテラン職人の存在を無視しておりました。
 同じ時代の蒔絵の工芸作品ですとか、染色の「辻が染め」などでも、感心してい
ると「今の技術ではとても再現は無理です」と聞かされて「そうか、昔の職人さん
は」と驚かされたことしばしばです。

 それにしても400年前の工房や職人さんの腕を想像するのはたやすいことでは
ありません。
 たとえば、嵯峨本づくりの職人さんはどんな服装でしたでしょうか。たぶん、筒袖
の作務衣ふうの上着にモンペふうの短袴、頭にはハチマキ、上着にはタスキがけ
ではなかったかと想像します。もちろん、男だけの職場、作業は明るい時間帯のみ
です。灯火の関係で夜は無理です。

 さて、嵯峨本はどちらかというと、遊びというかアート色が強いものでした。
それに対して、もっと実用に供される活字版印刷はその後どのような歩みを刻んだ
のでしょうか。
 活字本出版がいちばん隆盛をみたのは「寛永時代」の1620年代前半で、寺院で
も民間でも木活字を使った出版が盛んに行われました。 それが、なんと寛永時代
後半になると、印刷はふたたび木版、一枚の板木に文字を刻む整版印刷に舞い
戻ってしまったのです。
 
 金属活字のキリシタン版印刷が消え、次に木活字を使った印刷も消えてしまった
のです。「どうした、どうした、それからどうした」ふうにいうと、「本木の昌造さん
が出てきた」となるのですが、本木さんについてはすでに何度も書きましたので、
大木さん以外の活版印刷人について次回から触れてみます。


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嵯峨本工房は工程別だった

2011-04-11 09:56:00 | 活版印刷のふるさと紀行
洛北、鷹ヶ峯の工芸村で、雲母(きら)を散らした料紙づくりを目にして、「この紙に
筆写文字と変わらない印刷ををして、公家衆や天皇に贈ったらさぞ喜ばれるだろう」、「題材はなにがよいだろう、伴天連本に平家物語があると聞いた、その向こうをはって「伊勢物語」はどうだろう、源氏物語もいけるかも』 光悦の嵯峨本づくりの着想はこんなふうだったのかも知れませんね。

 それならば工房はどんなだったでしょう。
 私は総合工房ではなくて、ある程度、工程別にわかれていたと想像します。木活字になる木材を乾燥させる材料置き場の隣りに木を切る部門の工房があったでしょうし、活字を彫る工房と実際に印刷する工房は別にあったと考えます。
 それぞれに独自のノウハウがありますから、職人たちは自分の仕事ぶりをなるべく見られないようにしていたに違いありません。

 光悦はおそらくデザイン本部のような機能をもつ工房にいたはずです。
 そこが嵯峨本の企画本部で、彼がここで活字の仕上がりをチェックしたり、本文用紙の料紙のカラーぎめをしていたのではないでしょうか。
 嵯峨本でいちばん苦労したのは活字のおおもと、文字の版下づくりでした。とくに2字とか3字分が一体になった連続文字活字と1字分の単体活字が組版のときピタッと合わなければなりません。拡大・縮小率の割り出し機器なんかありません。せいぜい、点眼鏡で細部を見るのが精いっぱいの時代ですから。光悦が自身で版下文字を書いたという説がありますが、はたしてどうでしょうか。


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