活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

「活版印刷」に目をつけたのは武士

2011-04-22 10:44:58 | 活版印刷のふるさと紀行
 大阪四天王寺にある本木昌造の銅像を見ますと腰に大小を差しています。
これは昭和60年に復元されたもので、明治30年につくられた最初の銅像
は第2次大戦中に金属供出されてしまったのだといいます。
 どうやら陣笠、狩り袴のスタイルは初代の銅像も同じだったようです。

 ご承知のように本木は実父も養父も代々幕府に召し抱えられていたオラ
ンダ通詞でしたから彼も大小を差す士分でありました。
 前回の市川兼恭は松平越前守の藩士でしたし、彼の部下でのちに活字御用
出役というイカメシイ役職についた榊令輔は藤堂和泉守の藩士でした。

 本木は通詞という職掌がらオランダの印刷機や鋳造活字に早く触れる機会
がありましたし、案外、早い時期にオランダの鋳造活字が日本に持ち込まれた
こともあって幕府の蕃書調所の活字方や活字掛の武士たちが「活版印刷」に
目をつけたのは当然かもしれません。

 明治になってからの秀英舎も武士あがりの人たちで起業されております。
私が『活版印刷紀行』で紹介しましたが、サムライ出身が多かったので明治
初年の印刷業者は結構、店でふんぞり返っていて、出来たての諸官庁から
官員さんが二頭立ての馬車か人力車で「印刷をお頼み申しあげたい」と依頼
に来たといいます。
コメント
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