活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

生身の鉄川与助さん

2012-04-22 09:45:16 | 活版印刷のふるさと紀行

 テレビの「相棒」をみていますと、特命係の水谷豊が「これは私の悪い癖で」といって問い質すシーンによくぶつかります。「鉄川与助の教会建築展」を見ながら、あるいは川上秀人さんの講演「棟梁建築家・鉄川与助がめざした教会建築」を聴きながら与助の人間像、ナマミの鉄川与助さんがどんな人だったろうかをしきりに想像してしまいました。私の悪い癖です。

 会場に与助さんの写真がありました。こっそり「失敬写」したのがこれです。おしゃれで外出のときは黒の三つ揃いの胸に懐中時計の鎖を垂らして帽子を着用していたといいます。そんなに長身には見えません。会場に展示されていた市販の当用日記を利用した作業記録をみると、細字でいかにも几帳面に書き込まれていました。鉄の旧字体「鐡」のイメージも備えていた真面目な方だったのではないでしょうか。

 1879年(明治12)に五島列島の大工棟梁の長男に生まれ15歳で大工修行に踏み出した与助さんは22歳のときにはじめてフランス人のペルー神父のもとで教会建築に触れ、その虜になって彼が棟梁として設計・施工した教会は戦前だけで30棟を越すといわれております。。

 川上さんの講演で与助さんが、いちばん影響を受けたのは晩年のド・ロ神父だったことを知りました。ド・ロ神父は日本の印刷文化にも貢献した人で、私も外海(そとめ)や長崎に何度か調べに行っているだけにうれしく思いました。長崎の大浦天主堂の脇にある旧長崎大司教館は1915年竣工でド・ロ神父が設計、与助さんが図面をひいて設計した合作建築だそうです。

 川上さんは、福岡県大刀洗町にある今村教会を例に、高等小学校卒業だけで独学で建築学を学び、のちには建築学会にまで入って新技術の吸収につとめた与助さんの奮闘ぶりを熱っぽく紹介されました。「棟梁建築家」どなたのネーミングか知りませんがまさにそうなのでしょう。ナマミの鉄川与助さんを知りたくなります。

 五島といえばいまでも遠隔感がありますが、明治・大正・昭和と三代にわたって、しかも施主としては必ずしも恵まれていない信徒の方とともに教会建築を進めるのにはどれほどの苦労があったことでしょうか。もう一度、いまも残っている数々の棟梁建築家鉄川与助の教会をめぐってみたい思いがします。 

 

 

 

 

コメント (1)
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