活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

印刷に関しては秀吉よりも家康

2011-03-11 10:52:27 | 活版印刷のふるさと紀行
 前回で、秀吉はたまたま朝鮮進出を企画した太閤だったときに小西行長が送ってきた李朝
活字や活字版を手にしただけではないかといいました。
 少年使節たちの帰国土産のアラビア馬や銃砲類や彼らの楽器演奏には目を細めたでしょうが、
「活版印刷術」や「印刷物」にはそれほど感興は示さなかったと思います。

 それならば、徳川家康はどうだったでしょうか。
 1599年慶長4年を皮切りに『孔子家語』をはじめ矢継ぎばやに「伏見版」を各種刊行
させています。それは十数万本の新しい木活字を用意しての本格的な出版でした。折から起
こった関ヶ原の合戦で中断されることがなかったら、伏見版の数はもっとふえていたかも知
れません。

 秀吉との違いは、家康はみずから活版印刷の重要性を認め、自分の愛読書を順に活字本に
させたという印刷へののめりこみがあります。信長にしごかれて立身のみを念頭に働いた秀
吉は、おそらく書に親しみ、愛読書をもつような環境にはなかったから、同情の余地ありと
いえましょう。
 
 おもしろいのは、その家康の「伏見版」に刺激されて、1606年、慶長11年に豊臣秀頼
が挿絵入りの『帝鑑図説』という原典が朝鮮の木活字本を出していることです。


 家康は駿府に移ってからも銅活字を使って『群書治要』の刊行計画にとりかかります。い
わゆる「駿府版」です。

 
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秀吉は「印刷」にどれくらい興味があったか

2011-03-10 10:15:28 | 活版印刷のふるさと紀行
人間、幼いころ得た記憶や印象は成人してもなかなか拭い去ることが出来ないような気がします。
 私の場合、豊臣秀吉というと、日吉丸時代、針売りに疲れてに岡崎の矢矧橋(やはぎばし)の上に
寝ていて蜂須賀小六に拾われた姿を思い浮かべてしまいます。


 その日吉丸が太閤にたどりつくまでの知恵の働かせ方や武勲の数々はよく知られているところで
すが、その彼がどのような形でインテリジェンスを磨いたのかはあまり語られていません。
 話は飛びます。秀吉は1592年、日本の遠征軍が朝鮮からもたらした銅活字と活字版を手に入れ
ます。それが後陽成天皇に贈られ、勅版本の刊行にむすびついたというのが日本の「印刷文化史」の
定説になっております。たまたま、同じころ、ドラードたちが加津佐や天草でヨ^ロッパ仕込みの
活版印刷を始めております。

 それはそれでよいのですが、私は「秀吉がいかにも最初から印刷に興味があったように」考える
のは疑問だと思います。朝鮮で印刷道具を見つけて秀吉に送ったのは、小西行長だったと思います。
なぜなら彼ならヴァリニャーノたちと交流があり、ドラードたちの「活字を使った印刷」について
予備知識があったと思われるからです。武器ならいざ知らず、小さな活字が転がっていても興味を
持つような知的な武将は当時、いなかったはずです。


 また、「秀吉と印刷」について、こんな想像もできます。
 グーテンベルクの活版印刷の発明が1450年ごろ、ヴァリニャーノがはじめて織田信長に会った
のが1581年、おそらくヴァリニャーノは、そのとき、信長に「印刷の便利さ」をご進講申し上げ
たのではないでしょうか。私はその場面を『ドラードの生涯』に書きました。
 もし、そのとき、木下藤吉郎がそばにいて、「サル、よう見ておけ、これは版木を使ったもんじゃ
ないぞ」などといわれていたとすれば、秀吉の頭に「活字を使った印刷」が刷りこまれていたかも知
れませんが。私の勝手な日本印刷史だったら、小西行長の機転と後陽成天皇と西洞院時慶たち側近の
インテリジェンスが日本最初の活字版印刷を生んだとしたくて、秀吉はたまたま、「時の太閤」扱い
で済ませます。































































































































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キリシタン版とジョアン・ロドリゲス

2011-03-08 15:07:29 | 活版印刷のふるさと紀行
渡辺京二さんは『バテレンの世紀』の「活版印刷の伝来」の中でキリシタン版出版の舞台裏で
編集作業に当った人を紹介しています。
 養方軒パウロやその子洞院ビセンテあるいは不干斎ハビアンです。
 さて、この三人はひとまず置いておいて、私はロドリゲスも「印刷」と深くかかわったことを
指摘したいと思います。

 ロドリゲスがどこで生まれたのか、日本にいつ来たのかははっきりしません。1580年にヴ
ァリニャーノが最初に日本にイエズス会の巡察師として来たときに臼杵や府内につくった学院で
神学生として勉強しています。まだ、若かったのです。規定課程を終えた彼は八良尾のセミナリ
ヨでラテン語の教師をしていましたが、やがてヴァリニャーノの秘書役をつとめます。

 ヴァリニャーノは秀吉や各地のキリシタン大名との折衝のとき、『日本史』で有名なフロイス
を使っていましたが、病弱なフロイスよりも、この若くて、外交力にたけて、日本語も達者な
ロドリゲスを起用するようになったのです。その後、徳川家康の貿易顧問もやりましたし、マカ
オやインドから来たポルトガル人商人との貿易交渉にも重用されるようになります。
 
 パウロたち三人についてもいえることですが、日本人の修道士の語学力はさしたるものではあ
りません。ラテン語やポルトガル語に通じているロドリゲスが忙しい時間をやりくりして、しば
しば、編集や校正作業に駆り出され、手伝うようになります。

 彼をおいてキリシタン版で有名な1603年発刊の『日葡辞書』や1608年の『日本大文典』
の編集に携わる人はいなかったはずです。
 とくにマカオで1620年に出た『日本小文典』やそのあとに出た『日本教会史』の編集では
相当、力を発揮したに違いありません。マカオに追いやられていた少年使節の一人、原マルチノ
も手伝っていたでありましょうし、もちろん印刷はドラードが担当しました。

 私は『活版印刷人ドラードの生涯』(印刷学会出版部)の最後にこう書きました。
―一六二〇年七月三日、邦暦の元和六年六月四日ドラードはついに昇天した。五十三歳だった。
ジョアン・ロドリゲスが終油の秘蹟を授け、枕もとで原マルチノが長い間祈りを捧げていた。
ドラードが手を伸ばせば届いたであろう小卓の上に、師ヴァリニャーノの形見の聖書と『原マル
チノの演説』と『日本小文典』の校正刷りが置かれていた。―


 




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ジョアン・ロドリゲスが秀吉との仲介を

2011-03-07 15:08:12 | 活版印刷のふるさと紀行
ロドリゲス・ツズのツズは日本語の通辞、通訳を意味します。彼の本名はジョアン・ロドリゲスです。
当時、来日していた宣教師に「ロドリゲス名」がやたら多かったための通称でしょう。
 ヴァリニャーノが天正少年使節の一行を引き連れて、長崎港に着いたのが、1590年7月21日でした。

 彼らが翌年の2月に聚楽第で秀吉の大歓迎を受け、秀吉もインド副王の名代ヴァリニャーノからの贈り物
アラビア馬やミラノ製の甲冑、新型銃に相好を崩していましたが、実は、ここに漕ぎつけるまでが大変
だったのです。

 8年5カ月前少年使節が日本を後にしたときと、キリシタンに対する日本の国情が様変わりしていたし、
もう3年も前に秀吉が「伴天連追放令」を出して、秀吉は旧知のヴァリニャーノがインド副王代理を騙って
いるのではと疑ってさえいたのです。

 そこでロドリゲスに出番が廻ってきたのです。秀吉が名護屋滞在中は名護屋で、伏見にいるときは伏見で
懸命に秀吉を掻き口説いたのです。
 そのころ日本にいる宣教師は秀吉の顔色をうかがって戦戦恐恐としておりました。おそらく渡辺京二さんの
推察どおり、いっぽうでマカオとの貿易続行を願う秀吉の心をロドリゲスは得意の日本語でくすぐったにちが
いありません。

 ロドリゲスはバテレン追放令からは特別扱いで免れていましたが、やがて日本国中に弾圧の嵐が吹きすさぶと
中国へ逃れ、1633年に没しています。    


 
http://blog.goo.ne.jp/admin/newentry/#
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渡辺京二さんの「活版印刷の伝来」

2011-03-06 22:32:40 | 活版印刷のふるさと紀行
私が長年愛読している雑誌『選択』に今月で連載60回を数える渡辺京二さんの「追想 バテレンの世紀」が
あります。その連載の今月のタイトルが、うれしいことに、この「活版印刷の伝来」です。
 「いよいよきたか」、思わずニンマリしてしまった私です。

 残念なことに見開き2ページですから何十秒かで一読、2度目は食い入るように読みました。
秀吉が出てくる。オルガンティーノが出てくる。ロドリゲス・ツズが出てくる。ヴァリニャーノが出てくる。
天正遣欧使節、そして私にとっては真打ちともいうべき、「活版印刷伝来」の真の立役者コンスタンチノ・
ドラードの名前が出てくるに及んで「よーしや」とはあまりにも不謹慎でした。

 渡辺さんは少年使節を引率してインド副王の肩書で秀吉との対面を願ったヴァリニャーノをロドリゲスが
うまくつないだところから筆を起こし、キリシタン版の紹介で締めくくっておられます。2ページでは、
あまりにも残念な題材です。

 そこで私は不遜にも思いついたのです。
 「コンスタンチノ・ドラード」の執筆ノートから、私のメモワールを抜き書きしてみようと。
 以下、次号ならぬ次回。




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プランタン・モレトウスのこと

2011-03-05 17:44:41 | 活版印刷のふるさと紀行
 雛祭りのシーズンになって東京に真冬の寒さが逆戻りしてきました。
ベルギーの友人から手紙が来ましたが、あちらも例年より寒そうです。
 彼は「グーテンベルクよりもクリストフ・プランタンの方がエライ」と力説するプランタン信奉者です。

 もう何年も前、アントワープで「日本のポスター展」を開催したとき、彼の案内で『プランタン・
モレトウス印刷美術館』を3回も見に行きました。
 プランタンはフランス人で、リヨンで「印刷術」の腕を磨き、1555年にアントワープで
印刷所をひらきます。グーテンベルクよりもちょうど、百年遅れのことでした。

 そしてわずか十数年、1570年代には世界でも指折りの「印刷王国」を築き上げます。
 印刷美術館では盛業時代の印刷機の並んだ作業場をはじめ、プランタンで印刷した書籍、木版画
や銅版画、インキュナブラや写本など、まさに印刷文化が百花繚乱、見学客の目を奪います。
おまけに、厨房や食堂のような住居部分まで見ることができて、当時の「印刷人」の生活まで
想像できました。

 ゆっくり、ヨーロッパの古い印刷文化を見て回るうちに、2001年ユネスコが遺産の指定をしたことも、
グーテンベルクよりもプランタンがエライのも素直に頷けるから不思議です。
パリからは特急で2時間、ぜひ、あなたも足をのばしてください。フランダースの犬も待っているかもしれません。



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