活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

木村嘉平が島津斉彬に活字製造を頼まれる

2011-04-13 11:55:30 | 活版印刷のふるさと紀行
 「本木昌造以外の活版印刷人について次回から」と、私はエラそうにいいました。
 そうはいいましても、日本には定本というべきような『印刷史』がないのが実情です。
大学の印刷学科や工芸高校系の印刷科などで使われている教科書を見たことがありませんので尚更そう思ってしまいます。私がいちばん信頼しておりますのが、川田久長著の『活版印刷史』ですが、それとて、時系列を追った「正史」とはいい難い面があります。

 以前、平野富二さんの項でも触れましたが、日本の印刷史の上で本木昌造が偉大な先人に
なり過ぎている嫌いがあります。
 さて、余分なことは置いておいて、ここでとりあげたいのは木村嘉平です。
 鹿児島の尚古集成館所蔵の「木村嘉平関係資料」は家康の駿河版銅活字についで重要文化財に指定されています。

 「製作者・製作経緯及び伝来の明らかな幕末・維新期における活字・印刷器具類等が一括現存する代表的な例として、わが国の印刷文化史研究上に貴重である」
 これが国の文化財保護審議会のお墨つきでした。

  江戸神田小柳町で代々、木版彫刻師を営む木村嘉平の三代目を18歳で襲名したのが、1823年(文政6)生まれのこの文化財の生みの親、木村嘉平その人です。
 木村嘉平というと薩摩、島津家27代の島津斉彬を登場させねばなりません。もともと薩摩は早くから開版事業が盛んでしたが、斉彬は漢籍の普及や洋書の購入に目がなく、和文や欧文の「印刷」にも興味を持っていました。

 斉彬が「字彫り名人」の名の高い木村嘉平に鉛活字を作って英文の印刷を委嘱されたのが弘化4年といいますから1847年、その年の6月に斉彬が江戸に出てきておりますから6月以降のことだと思います。

   

 
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講演会『中浦ジュリアンと私』のお知らせ

2011-04-12 11:02:33 | 活版印刷のふるさと紀行
天正少年使節のなかの1人、中浦ジュリアンに興味をお持ちの方に講演会の
お知らせです。

 彼は1633年(寛永10)10月21日に5日間の穴吊りに耐えたのち殉教していま
す。
その中浦ジュリアンの末裔、小佐々 学さんの講演会が今週の土曜日の夕方に
「印刷博物館」グーテンベルクルームであります。

 講師の小佐々さんは中浦城主でもあった小佐々水軍の家系であるところから、長年
ジュリアン研究に打ち込んだ方で、ローマ法王の謁見を受けておられます。

 主催は私が関係している「神田川大曲塾」で、塾員以外の一般の方は入場無料
です。(講演会終了後の「小佐々先生を囲んで」の懇談パーティにご出席いただ
く場合は参加飲食費として2千円いただきます。)

 パワーポイントを使って視覚的でくだけた内容ですし、少人数で内輪の会です
ので気楽にご参加ください。受付で「活版印刷紀行のブログを見た」とおっしゃ
ってください。

   講演会     『中浦ジュリアンと私』
        
          平成23年4月16日(土) 16:00~18:00
          (懇談会は18:30~20:00

   
   講 師   小佐々  学先生(獣医学博士・日本獣医史学会理事長)
   
   会 場   印刷博物館グーテンベルクルーム
        
        (東京都文京区水道1丁目3-3トッパン小石川ビル)
         東京メトロ有楽町線「江戸川橋駅4番出口」徒歩8分
         JR総武線「飯田橋駅東口」・東京メトロ有楽町線・
         東西線・南北線・都営地下鉄大江戸線(B1出口)徒歩15分
   主 催   印刷懇話会「神田川大曲塾}  
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木活字本も消える運命に

2011-04-11 10:57:31 | 活版印刷のふるさと紀行
拡大・縮小を光学的に、あるいはデジタルでできなかった時代の嵯峨本づくりの
大変さには同情してしまいます。
原寸処理という点では「彫字作業」でも「版下づくり」と同じです。

 前出の森上 修先生は二字とか三字続きの連続文字の場合を例にして
 「こうした類似の字形を版下書きに頼らず、何の苦もなく版下なしで直か彫りが
できる職人衆が同じ工房内にいて…」と想像しておられます。
 
 たしかに、私はベテラン職人の存在を無視しておりました。
 同じ時代の蒔絵の工芸作品ですとか、染色の「辻が染め」などでも、感心してい
ると「今の技術ではとても再現は無理です」と聞かされて「そうか、昔の職人さん
は」と驚かされたことしばしばです。

 それにしても400年前の工房や職人さんの腕を想像するのはたやすいことでは
ありません。
 たとえば、嵯峨本づくりの職人さんはどんな服装でしたでしょうか。たぶん、筒袖
の作務衣ふうの上着にモンペふうの短袴、頭にはハチマキ、上着にはタスキがけ
ではなかったかと想像します。もちろん、男だけの職場、作業は明るい時間帯のみ
です。灯火の関係で夜は無理です。

 さて、嵯峨本はどちらかというと、遊びというかアート色が強いものでした。
それに対して、もっと実用に供される活字版印刷はその後どのような歩みを刻んだ
のでしょうか。
 活字本出版がいちばん隆盛をみたのは「寛永時代」の1620年代前半で、寺院で
も民間でも木活字を使った出版が盛んに行われました。 それが、なんと寛永時代
後半になると、印刷はふたたび木版、一枚の板木に文字を刻む整版印刷に舞い
戻ってしまったのです。
 
 金属活字のキリシタン版印刷が消え、次に木活字を使った印刷も消えてしまった
のです。「どうした、どうした、それからどうした」ふうにいうと、「本木の昌造さん
が出てきた」となるのですが、本木さんについてはすでに何度も書きましたので、
大木さん以外の活版印刷人について次回から触れてみます。


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嵯峨本工房は工程別だった

2011-04-11 09:56:00 | 活版印刷のふるさと紀行
洛北、鷹ヶ峯の工芸村で、雲母(きら)を散らした料紙づくりを目にして、「この紙に
筆写文字と変わらない印刷ををして、公家衆や天皇に贈ったらさぞ喜ばれるだろう」、「題材はなにがよいだろう、伴天連本に平家物語があると聞いた、その向こうをはって「伊勢物語」はどうだろう、源氏物語もいけるかも』 光悦の嵯峨本づくりの着想はこんなふうだったのかも知れませんね。

 それならば工房はどんなだったでしょう。
 私は総合工房ではなくて、ある程度、工程別にわかれていたと想像します。木活字になる木材を乾燥させる材料置き場の隣りに木を切る部門の工房があったでしょうし、活字を彫る工房と実際に印刷する工房は別にあったと考えます。
 それぞれに独自のノウハウがありますから、職人たちは自分の仕事ぶりをなるべく見られないようにしていたに違いありません。

 光悦はおそらくデザイン本部のような機能をもつ工房にいたはずです。
 そこが嵯峨本の企画本部で、彼がここで活字の仕上がりをチェックしたり、本文用紙の料紙のカラーぎめをしていたのではないでしょうか。
 嵯峨本でいちばん苦労したのは活字のおおもと、文字の版下づくりでした。とくに2字とか3字分が一体になった連続文字活字と1字分の単体活字が組版のときピタッと合わなければなりません。拡大・縮小率の割り出し機器なんかありません。せいぜい、点眼鏡で細部を見るのが精いっぱいの時代ですから。光悦が自身で版下文字を書いたという説がありますが、はたしてどうでしょうか。


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京の≪はんなり≫が嵯峨本を生んだ

2011-04-09 15:24:57 | 活版印刷のふるさと紀行
 嵯峨本はどこでどのようにしてつくられたのでしょうか。
 時代背景としては戦国時代の終焉、やがて日本の近代化の芽生えといいますか
江戸時代が始まろうとしている時期です。新しいものを孕んだ「胎生」のときが
すぐそこまで来ていた、そんなときではなかったかと思います。

 それでは、嵯峨本のふるさと京はどんなふうだったのでしょうか。 フロイスの
『日本史』にも出てきますが 、やはり、芽生えのときでした。
 たとえば、秀吉は町中の木戸を取り払ったり、それまで、領主のフトコロに入って
いた地子銭(じしせん)を免除したりしました。そのかわり、領主に土地を与える
政策を執ることにしました。

 家康もそのあとをついで京の町の近代化に乗りだしたのです。たまたま、本阿弥
光悦も家康から嵯峨の土地を与えられました。いまの光悦寺のあたりでしょうか。
彼は、そのあたりに工芸分野の職人を集めて一種の芸術村を創ったのです。
 嵯峨本工房もその一画にありました。
 光悦は芸術村以前から蒔絵ですとか西陣織のような染色ですとか、京の職人仕事
を間近かにして、その≪はんなり≫した美しさに耽溺していたのではないでしょうか。

 ≪はんなり≫が嵯峨本を思いつかせ、嵯峨本を生んだと考えるのはいかがのもの
でしょうか。



 
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嵯峨本とキリシタン版

2011-04-07 13:15:46 | 活版印刷のふるさと紀行
私は書誌学のような学問にも古活字の製造技術にも疎いのでそちらから嵯峨本について語る資格はありません。
 ただ、何度も言って来たように日本で初めて金属活字を使い幾多の刊行物を世に送ったキリシタン版の印刷技術がまったく痕跡を残さないまま、ドラードたちとともにマカオに追放されたとはどうしても信じられません。

 金属活字ではないものの、嵯峨本のような木活字本にも、キリシタン版の技術が投影されているのではないか、また、前回で触れたようにキリシタン版の印刷に携わった職人が嵯峨本にも関係しているのではないか、と前から想像して来ました。

 うれしかったのは、
かねて神田川大曲塾でも教えを受けたことのある近畿大学の森上 修先生の『日本文化の美と醜』2009年風媒社刊で、いずれにしても、わが国の古活字版は真名本も仮名本も例外なくすべてがキリシタン版の活字組版方式に倣うものであったと言うことができるであろう」と断定しておられるのを目にしたときでした。

 先生は李朝版は活字を蜜蝋などの付着材を使って動かないように固定させる中国に端を発する技法が使われているのに対して、日本の古活字版では付着材を使わないキリシタン版方式が採用されていることも理由の一つに挙げておられました。

 森上先生が調査されたのは大阪樟蔭女子大学図書館像の伝嵯峨本『源氏物語』の「宿木」ですので、あきらかな嵯峨本にあてはめては、私の大ざっぱさがお叱りを受けるかもしれませんが、とにかく、うれしかったのです。

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だれが嵯峨本を印刷したのか

2011-04-05 15:11:01 | 活版印刷のふるさと紀行
さて、企画を立てた人の問題の次は「だれが嵯峨本を印刷したのか」です。
そのころのほかの「古活字版」の木活字と嵯峨本の木活字とでは明らかに「顔」が違うので、恐らく、活字作りから新規のプロジェクト・チームが組まれたと考えなくてはなりません。

 顔の違いは寺院などの古活字版は版面を見ると、漢字ばかりが並んでいる漢籍調であるのに対して嵯峨本の方は、あたかも手書きのように見えるほど美しい版面です。漢字とひらがなまじりというのも特徴ですが、さらに、古活字版の続き字よりも嵯峨本では流麗な続き字が出てくるというのがより大きな特徴です。

 前出の家康が駿河に呼んだという版木之衆の本拠は京です。だからプロジェクトの主力は木活字作りに長けた版木之衆で、そこへ同じ京の原田アントニオ印刷所でキリシタン版の『こんてむつすむんち』にかかわっっていた木切や字彫りの職人を仲間として引き込んだのではないかと私は推理しました。
 
 キリシタン版はグーテンベルク方式の金属活字を使っていますが、この『こんてむつすむんち』は日本語で唯一、木活字を使っております。行書・草書の漢字に平仮名が交じっております。嵯峨本の制作工程でアントニオ出身職人はさぞかし利用価値がたかかったのではないでしょうか。

 ただ、『こんてむつすむんち』が出たのが1610年(慶長15)で、伊勢物語が慶長13年刊という刊行年の問題があります。しかし、当時、キリシタン版は弾圧下で秘密裡に印刷しなくてはならない段階に差し掛かっていましたことから考えるると、前工程の職人はとっくに手離れしていたでしょうし、存外、給金につられて宗旨がえしたのかもしれません。

 
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嵯峨本の企画は誰がたてたのか

2011-04-04 10:16:37 | 活版印刷のふるさと紀行
 嵯峨本といいましても種類がたくさんあります。学術的には、よく、引き合いに出されるのが近畿大学中央図書館所蔵の『伊勢物語』(慶長13年刊)です。
 ただ、同じ嵯峨本『伊勢物語』といいましても木活字であるために、増刷のつど活字揃えがむずかしいので異版が多いとされています。
 そのほか、嵯峨本としては『徒然草』、『方丈記』、『撰集抄』や『古今集』、あるいは謡本などが知られています。

 それならば、この嵯峨本の出版企画をだれが立てたかです。
 京都嵯峨で出版されたから“嵯峨本”ですが、豪商角倉素庵が出版したから“角倉本”、あるいは本阿弥光悦が造った豪華本だから“光悦本”と呼び名もいろいろです。
 ここで、質問。この嵯峨本、二人のうち、どちらが企画したのでししょう。
 実はこれにも角倉説と本阿弥説とがあります。ややこしいことに俵屋宗達の名前が出て来ることもあります。宗達は置いておいて、私は本阿弥光悦が企画を立て、角倉素庵にカネを出させたと考えます。いかがでしょうか。

 実業人であった角倉がいくら隠居したといっても自分から出版を思いつくはずはなく、本阿弥がつてを頼って豪商で御隠居さんになっていた角倉に協力を依頼したのではないでしょうか。当時としては、角倉の方が社会的地位が高く、財力があるわけですから本阿弥が文化的貢献に一肌脱いでほしいともちかけた。その証拠に出来あがった本は売られることはなく、各界名士に贈り物として配られたといいます。

 一冊の中に40数枚という美しい挿絵、雲母刷りの用紙、それも藤色、草色、黄色、水色、桃色とページによっての色紙の使用、凝った装丁、こうしたことは本阿弥なら自家薬籠中のもの、彼がどうしてもこういう本づくりをしたかったのではないでしょうか。
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開版事業にはタイミングがある

2011-04-01 15:31:48 | 活版印刷のふるさと紀行

 為政者の家康が出版に噛んでいた点からいえば『大蔵一覧集』や『群書治要』はいまふうにいえば
政府刊行物でした。
 日本の活字印刷がそこからいきなり、民間のアート出版ともいえる嵯峨本に辿りついたわけではあ
りません。活字版をつかっての開版事業は秀頼も手掛けましたが、以前から印刷に取り組んでいた寺
院が活字版に着目しないわけがありません。
また、民間でも目をつける人が人が出てきます。 そうして寺で開版されたのが寺院版、民間で開版
されたれたのが印刷史の上では町版とか坊刻本とか呼ばれています。
 
 突然ですが、私は人が「出版」を考えるタイミングに共通なものがあると考えます。大きく括りま
すと、それは時代や人がなんらかの≪転換点≫にさしかかったときです。
 
 秀吉にしても家康にしても、自分の環境が大きく変わったとき、秀吉は朝鮮から撤退したとき、
家康は駿府に引退したときでした。もっといえば、戦国時代が終わりをつげ、江戸時代が始まろうと
する世の中全体が大きく変わろうとしているときでした。
 明治維新後の出版状況もそうでしたし、第二次大戦の終わった日本の戦後の「出版ブーム」も然り
でした。

 嵯峨本の生みの親ともいうべき角倉素庵(了以の子)もそうした環境に置かれていました。
父祖伝来の生業は医業でしたが、父、角倉了以・素庵の代では押しも押されぬ大貿易商でありました。
角倉了以は朱印船貿易で巨利を手にしましたが、よく知られているように高瀬川や大堰川の開削事業
でも貢献しました。素庵はこの父の貿易・土木事業を引き継いで活躍しました。
 そして隠居した時点で彼の目は「出版」に向けられます。これが彼にとって一つの≪転換点≫、
タイミングだったのです。





 

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