09.10/8 524回
三十六帖【柏木(かしわぎ)の巻】 その(6)
小侍従は、「宮様も身を恥られて、肩身の狭い思いで暮らしていらっしゃいます」と、女三宮のご様子をお話ししますと、柏木は宮を幻のうちにお見上げしているようで、なるほど御身から抜け出た魂が、宮の許に行くのであろうなどと、一層胸が痛んで、
「今更に、この御事よ、かけても聞こえじ。この世はかうはかなくて過ぎぬるを、長き世のほだしにもこそと思ふなむ、いとほしき。(……)見し夢を心ひとつに思ひ合せて、また語る人もなきが、いみじういぶせくもあるかな」
――もう今更、宮の御事は申しますまい。私の一生はこうしてはかなく過ぎてしまったのですが、このことが宮の成仏の妨げになりますようでは、気がかりでなりません。(ご懐妊がせめて安産であったとお聞きしてから死にたいものです)あの時見ました猫の夢を自分一人で合点して、語り合う人も居りませんのがはなはだ残念でなりません――
このように、あれこれとお話になる柏木を、時には浅ましいことと思い、時には御同情も抑えきれず、小侍従も一緒に大そう泣いてしまいました。
柏木は、女三宮からのお返事を、明かりを近くに寄せてご覧になりますと、
「心苦しう聞きながら、いかでかは。ただおしはかり。『残らむ』とあるは、歌(立ちそひて消えやしなまし憂きことを思ひみだるる煙くらべに)後るべうやは」
――お気の毒に思いながら、どうしてお見舞いなどできましょうか。ただ御推察を。あなたのお歌に「残らむ」とありますのに対しては、「あなたと私とどちらの煩悶が深いのかを比べるうちに、わたしも一緒に消えてしまいたい」どうして一人残れましょうか――
とありました。柏木はあわれ深くも有難いとも思いつつ、
「いでや、この煙ばかりこそは、この世の思ひいでならめ。はかなくもありけるかな」
――さても、この煙のお歌だけを、せめてものわが生涯の思い出となりましょう。それにしても何とはかないことか――
と、はげしくお泣きになるのでした。
ではまた。
三十六帖【柏木(かしわぎ)の巻】 その(6)
小侍従は、「宮様も身を恥られて、肩身の狭い思いで暮らしていらっしゃいます」と、女三宮のご様子をお話ししますと、柏木は宮を幻のうちにお見上げしているようで、なるほど御身から抜け出た魂が、宮の許に行くのであろうなどと、一層胸が痛んで、
「今更に、この御事よ、かけても聞こえじ。この世はかうはかなくて過ぎぬるを、長き世のほだしにもこそと思ふなむ、いとほしき。(……)見し夢を心ひとつに思ひ合せて、また語る人もなきが、いみじういぶせくもあるかな」
――もう今更、宮の御事は申しますまい。私の一生はこうしてはかなく過ぎてしまったのですが、このことが宮の成仏の妨げになりますようでは、気がかりでなりません。(ご懐妊がせめて安産であったとお聞きしてから死にたいものです)あの時見ました猫の夢を自分一人で合点して、語り合う人も居りませんのがはなはだ残念でなりません――
このように、あれこれとお話になる柏木を、時には浅ましいことと思い、時には御同情も抑えきれず、小侍従も一緒に大そう泣いてしまいました。
柏木は、女三宮からのお返事を、明かりを近くに寄せてご覧になりますと、
「心苦しう聞きながら、いかでかは。ただおしはかり。『残らむ』とあるは、歌(立ちそひて消えやしなまし憂きことを思ひみだるる煙くらべに)後るべうやは」
――お気の毒に思いながら、どうしてお見舞いなどできましょうか。ただ御推察を。あなたのお歌に「残らむ」とありますのに対しては、「あなたと私とどちらの煩悶が深いのかを比べるうちに、わたしも一緒に消えてしまいたい」どうして一人残れましょうか――
とありました。柏木はあわれ深くも有難いとも思いつつ、
「いでや、この煙ばかりこそは、この世の思ひいでならめ。はかなくもありけるかな」
――さても、この煙のお歌だけを、せめてものわが生涯の思い出となりましょう。それにしても何とはかないことか――
と、はげしくお泣きになるのでした。
ではまた。