2010.3/4 665回
四十帖 【御法(みのり)の巻】 その(8)
「秋待ちつけて、世の中すこし涼しくなりては、御心地もいささかさわやぐやうなれど、なほ、ともすればかごとがまし。さるは身にしむばかり思さるべき秋風ならねど、露けき折がちにて過ぐし給ふ」
――待ちわびていた秋になって、あたりが大分気持ちの良い涼しさになり、紫の上のお身の上も少しは落ち着いていらっしゃるようですが、ともすれば、ちょっとしたことがお身体に障るようです。といって、身に沁みて感慨深いほどの秋風ではありませんが、とかく涙がちにお過ごしになっておられます――
明石中宮はそろそろ内裏へ参内なさらねばなりませんのを、紫の上は、もうしばらく側においでになってください、と申し上げたいのですが、出過ぎたようでもあり、帝からのお使いがひっきりなしに参りますのも気になって、申し上げかねておりましたところ、中宮の方からこちらへお見えになりました。
病中のこととて、室内は取乱れてはおりますものの、紫の上も是非ともまた、お目にかかりたく、念入りにお席を準備されました。
紫の上のご様子は、
「こよなう痩せ細り給へれど、かくてこそ、あてになまめかしき事の限りなさもまさりて、めでたかりけれ、と、来し方あまり匂ひ多く、あざあざとおはせし盛りは、なかなかこの世の花の香りにも、よそへられ給ひしを、限りもなくらうたげにをかしげなる御様にて、いとかりそめに思ひ給へる気色、似るものなく心苦しく、すずろにものがなし」
――すっかりお痩せになってしまわれましたが、かえってこうなられたお姿は、限りもない上品さと優雅さも勝って、余計に風情がおありです。今まであまりにも艶やかに匂い満ちて、はでやかな盛りの頃は、却ってこの世の花の香りにも似て、形としての美の方が勝っておられましたが、今は、この上もなく可憐でお綺麗なお姿で、世のはかなさを思っておられますご様子は、譬えようもなく痛々しく、どうしようもないほど物悲しいのでした――
◆かごとがまし=託言がまし=恨みがましい。(ちょっとしたことで)愚痴っぽい。
◆あざあざと=鮮鮮と=あざやかに。はっきりと。
◆すずろに=とりとめもなく。
ではまた。
四十帖 【御法(みのり)の巻】 その(8)
「秋待ちつけて、世の中すこし涼しくなりては、御心地もいささかさわやぐやうなれど、なほ、ともすればかごとがまし。さるは身にしむばかり思さるべき秋風ならねど、露けき折がちにて過ぐし給ふ」
――待ちわびていた秋になって、あたりが大分気持ちの良い涼しさになり、紫の上のお身の上も少しは落ち着いていらっしゃるようですが、ともすれば、ちょっとしたことがお身体に障るようです。といって、身に沁みて感慨深いほどの秋風ではありませんが、とかく涙がちにお過ごしになっておられます――
明石中宮はそろそろ内裏へ参内なさらねばなりませんのを、紫の上は、もうしばらく側においでになってください、と申し上げたいのですが、出過ぎたようでもあり、帝からのお使いがひっきりなしに参りますのも気になって、申し上げかねておりましたところ、中宮の方からこちらへお見えになりました。
病中のこととて、室内は取乱れてはおりますものの、紫の上も是非ともまた、お目にかかりたく、念入りにお席を準備されました。
紫の上のご様子は、
「こよなう痩せ細り給へれど、かくてこそ、あてになまめかしき事の限りなさもまさりて、めでたかりけれ、と、来し方あまり匂ひ多く、あざあざとおはせし盛りは、なかなかこの世の花の香りにも、よそへられ給ひしを、限りもなくらうたげにをかしげなる御様にて、いとかりそめに思ひ給へる気色、似るものなく心苦しく、すずろにものがなし」
――すっかりお痩せになってしまわれましたが、かえってこうなられたお姿は、限りもない上品さと優雅さも勝って、余計に風情がおありです。今まであまりにも艶やかに匂い満ちて、はでやかな盛りの頃は、却ってこの世の花の香りにも似て、形としての美の方が勝っておられましたが、今は、この上もなく可憐でお綺麗なお姿で、世のはかなさを思っておられますご様子は、譬えようもなく痛々しく、どうしようもないほど物悲しいのでした――
◆かごとがまし=託言がまし=恨みがましい。(ちょっとしたことで)愚痴っぽい。
◆あざあざと=鮮鮮と=あざやかに。はっきりと。
◆すずろに=とりとめもなく。
ではまた。