2010.3/8 669回
四十帖 【御法(みのり)の巻】 その(12)
夕霧は、今をおいて紫の上を拝見できる折はないと思われると、慎みも無く急に涙があふれて、傍に仕えている女房たちが度を失って騒いでいますのを、
「『あなかま、しばし』としづめ顔にて、御几帳のかたびらを、もの宣ふ紛れに、引き上げて見給へば、ほのぼのと明けゆく光もおぼつかなければ、大殿油を近くかかげて見奉り給ひに、飽かず美しげに、めでたう清らに見ゆる御顔のあたらしさに、この君のかくのぞき給ふを見る見るも、あながちに隠さむの御心も思されぬなめり」
――(夕霧が)「さあ静かに、しばらくは」と制するふりをなさって、几帳の垂れ絹を、源氏に何か申し上げるに紛れて引き上げて、覗いてご覧になります。ちょうどほのぼのと明けかかる頃の光もまだおぼつかなくて、灯火を近くにかかげて源氏が見守っていらっしゃったのですが、紫の上のいつまでも見飽きぬ美しさ、見事さ、清らかさをとり集めたお顔の名残惜しさに、夕霧が覗いて見ておいでなのにも、源氏は無理に隠そうともなさらないでいらっしゃる――
源氏は、
「かく何事もまだ変わらぬ気色ながら、限りのさまはしるかりけるこそ」
――こうして何事も生前と変わりない様子なのに、やはりもうはっきりと死相が現れてきている。ほんとうに悲しい――
とおっしゃって、源氏は袖をお顔に押し当てて泣いておられ、夕霧も一緒に涙にくれて目も見えないような時に、
「しひてしぼりあけて見奉るに、なかなか飽かず悲しきこと類なきに、まことに心惑ひもしぬべし」
――(夕霧は)無理に涙を絞って目を開けてご覧になりますと、いっそう堪えにくく悲しみが増して、心もあやしくかき乱されそうです――
「御髪のただうちやられ給へるほど、こちたくけうらにて、露ばかり乱れたる気色もなう、艶艶と美しげなるさまぞ限りなき。燈のいと明きに、御色はいと白く光るやうにて、とかくうち紛らはす事ありし現の御もてなしよりも、いふかひなきさまに、何心なくて臥し給へる御有様の、飽かぬ所なし、と言はむもさらなりや」
――(亡くなったばかりの紫の上は)お髪が無造作にうち置かれていらっしゃっても、ふさふさと美しく、燈火がたいそう明るい中でも、お顔色は白く透きとおるようです。
何かと御身をお繕いになることがおありだった生前よりも、このように意識の無い状態のお姿の申し分ないというのも、今更申し上げるまでもない類まれな御方というべきです。――
紫の上の美しさをご覧になった夕霧は、ご自分の魂も絶え入りそうで、いっそのこと、そのままこの亡骸に留まればよいと思わずにはいられませんが、それも無理な願いというものでしょう。
◆しるかりけるこそ=はっきりと知ることになってしまった。
◆けうらにて=清らにて
◆源氏は紫の上を夕霧には絶対に逢わせなかった。若き日の自分と藤壺のことがあったので、警戒した。
ではまた。
四十帖 【御法(みのり)の巻】 その(12)
夕霧は、今をおいて紫の上を拝見できる折はないと思われると、慎みも無く急に涙があふれて、傍に仕えている女房たちが度を失って騒いでいますのを、
「『あなかま、しばし』としづめ顔にて、御几帳のかたびらを、もの宣ふ紛れに、引き上げて見給へば、ほのぼのと明けゆく光もおぼつかなければ、大殿油を近くかかげて見奉り給ひに、飽かず美しげに、めでたう清らに見ゆる御顔のあたらしさに、この君のかくのぞき給ふを見る見るも、あながちに隠さむの御心も思されぬなめり」
――(夕霧が)「さあ静かに、しばらくは」と制するふりをなさって、几帳の垂れ絹を、源氏に何か申し上げるに紛れて引き上げて、覗いてご覧になります。ちょうどほのぼのと明けかかる頃の光もまだおぼつかなくて、灯火を近くにかかげて源氏が見守っていらっしゃったのですが、紫の上のいつまでも見飽きぬ美しさ、見事さ、清らかさをとり集めたお顔の名残惜しさに、夕霧が覗いて見ておいでなのにも、源氏は無理に隠そうともなさらないでいらっしゃる――
源氏は、
「かく何事もまだ変わらぬ気色ながら、限りのさまはしるかりけるこそ」
――こうして何事も生前と変わりない様子なのに、やはりもうはっきりと死相が現れてきている。ほんとうに悲しい――
とおっしゃって、源氏は袖をお顔に押し当てて泣いておられ、夕霧も一緒に涙にくれて目も見えないような時に、
「しひてしぼりあけて見奉るに、なかなか飽かず悲しきこと類なきに、まことに心惑ひもしぬべし」
――(夕霧は)無理に涙を絞って目を開けてご覧になりますと、いっそう堪えにくく悲しみが増して、心もあやしくかき乱されそうです――
「御髪のただうちやられ給へるほど、こちたくけうらにて、露ばかり乱れたる気色もなう、艶艶と美しげなるさまぞ限りなき。燈のいと明きに、御色はいと白く光るやうにて、とかくうち紛らはす事ありし現の御もてなしよりも、いふかひなきさまに、何心なくて臥し給へる御有様の、飽かぬ所なし、と言はむもさらなりや」
――(亡くなったばかりの紫の上は)お髪が無造作にうち置かれていらっしゃっても、ふさふさと美しく、燈火がたいそう明るい中でも、お顔色は白く透きとおるようです。
何かと御身をお繕いになることがおありだった生前よりも、このように意識の無い状態のお姿の申し分ないというのも、今更申し上げるまでもない類まれな御方というべきです。――
紫の上の美しさをご覧になった夕霧は、ご自分の魂も絶え入りそうで、いっそのこと、そのままこの亡骸に留まればよいと思わずにはいられませんが、それも無理な願いというものでしょう。
◆しるかりけるこそ=はっきりと知ることになってしまった。
◆けうらにて=清らにて
◆源氏は紫の上を夕霧には絶対に逢わせなかった。若き日の自分と藤壺のことがあったので、警戒した。
ではまた。