2010.3/11 672回
四十帖 【御法(みのり)の巻】 その(15)
「臥しても起きても涙の干る世なく、霧ふたがりて明かし暮らし給ふ」
――(源氏は)寝ても覚めても涙が乾く間もなく、御目も霧に塞がっているようにお暮しになっています――
源氏のお心の内は、
「いにしへより御身の有様思し続くるに、鏡に見ゆる影をはじめて、人には異なりける身ながら、いはけなき程より、悲しく常なき世を思ひ知るべく、仏などのすすめ給ひける身を、心強く過ぐして、つひに来し方行く先も例あらじと覚ゆる悲しさを見つるかな」
――昔からのご自分の身の上を考えてごらんになりますと、鏡に映る容姿をはじめ、人並み以上に優れた身でありながら、幼児の頃から身近な人々の死に遭われたのは、悲しく無情の世を悟るようにと仏などが薦めたことであったろうに、強気に過ごして来て、結局このような過去にも未来にも例のないような悲痛な目に遭ったことよ――
「今はこの世にうしろめたきこと残らずなりぬ。ひたみちに行ひにおもむきなむに、さはり所あるまじきを、いとかくをさめむ方なき心惑ひにては、願はむ道にも入り難くや」
――今はもう、この世に何の思い残すことはない。仏道に専心励むのに何の差し障りも無い筈なのに、こうも心を鎮まらないでは、仏道にも入りにくいのではなかろうか――
と、この悲しみの思いをなだめて落ち着かせてくださるように、阿弥陀仏にお念じになるのでした。
内裏をはじめ、あちらからこちらからの御弔問が、単に儀礼的ではなく、心を込めて大勢お出でになります。
「思し召したる心の程には、さらに何事も目にも耳にもとどまらず、心にかかり給ふ事あるまじけれど、人にほけほけしきさまに見えじ、今更にわが世の末に、かたくなしく心弱き惑ひにて、世の中をなむ背きにける、と、流れとどまらむ名を思しつつむになむ、身を心に任せぬ歎きをさへうち添へ給ひける」
――出家を決意された今の源氏にお心では、もう何事についても、目にも耳にも留まらず、お心にかかることはないのですが、人の目に呆けた様子と見えないように、今更この年齢になって、今更女のことで迷って出家したのだと後世までも、言いふらされないようにと思っていらっしゃるので、御心のままに振る舞えない辛さまでもが加わるのでした――
◆さはり所=障り所=妨げになる場所や、物。
◆ほけほけしきさま=惚け惚けしき様=惚けたような様子
◆かたくなしく=頑なしく=がんこ、見苦しい、みっともない。
ではまた。
四十帖 【御法(みのり)の巻】 その(15)
「臥しても起きても涙の干る世なく、霧ふたがりて明かし暮らし給ふ」
――(源氏は)寝ても覚めても涙が乾く間もなく、御目も霧に塞がっているようにお暮しになっています――
源氏のお心の内は、
「いにしへより御身の有様思し続くるに、鏡に見ゆる影をはじめて、人には異なりける身ながら、いはけなき程より、悲しく常なき世を思ひ知るべく、仏などのすすめ給ひける身を、心強く過ぐして、つひに来し方行く先も例あらじと覚ゆる悲しさを見つるかな」
――昔からのご自分の身の上を考えてごらんになりますと、鏡に映る容姿をはじめ、人並み以上に優れた身でありながら、幼児の頃から身近な人々の死に遭われたのは、悲しく無情の世を悟るようにと仏などが薦めたことであったろうに、強気に過ごして来て、結局このような過去にも未来にも例のないような悲痛な目に遭ったことよ――
「今はこの世にうしろめたきこと残らずなりぬ。ひたみちに行ひにおもむきなむに、さはり所あるまじきを、いとかくをさめむ方なき心惑ひにては、願はむ道にも入り難くや」
――今はもう、この世に何の思い残すことはない。仏道に専心励むのに何の差し障りも無い筈なのに、こうも心を鎮まらないでは、仏道にも入りにくいのではなかろうか――
と、この悲しみの思いをなだめて落ち着かせてくださるように、阿弥陀仏にお念じになるのでした。
内裏をはじめ、あちらからこちらからの御弔問が、単に儀礼的ではなく、心を込めて大勢お出でになります。
「思し召したる心の程には、さらに何事も目にも耳にもとどまらず、心にかかり給ふ事あるまじけれど、人にほけほけしきさまに見えじ、今更にわが世の末に、かたくなしく心弱き惑ひにて、世の中をなむ背きにける、と、流れとどまらむ名を思しつつむになむ、身を心に任せぬ歎きをさへうち添へ給ひける」
――出家を決意された今の源氏にお心では、もう何事についても、目にも耳にも留まらず、お心にかかることはないのですが、人の目に呆けた様子と見えないように、今更この年齢になって、今更女のことで迷って出家したのだと後世までも、言いふらされないようにと思っていらっしゃるので、御心のままに振る舞えない辛さまでもが加わるのでした――
◆さはり所=障り所=妨げになる場所や、物。
◆ほけほけしきさま=惚け惚けしき様=惚けたような様子
◆かたくなしく=頑なしく=がんこ、見苦しい、みっともない。
ではまた。