2010.3/26 687回
四十一帖 【幻(まぼろし)の巻】 その(12)
明石の御方は、なお源氏にお話になります。
「さやうにあさへたる事は、かへりて軽々しきを、もどかしさなども立ち出でて、なかなかなる事ども侍るを、思したつ程鈍きやうに侍らむや、つひに澄みはてさせ給ふ方、深う侍らむと、思ひやられ侍りてこそ」
――そのように単純なご出家では、却って軽々しいとの非難も立ちましょう。なまじご出家などなさらない方がましなこともありますものを。容易にご決心のつかない方が、一旦ご出家の後は、ご道心が固くお達しになれましょうと存じまして――
さらに、
「いにしへの例などを聞き侍るにつけても、心におどろかれ、思ふより違ふふしありて、世をいとふついでになるとか。それはなほわるき事とこそ」
――昔の例などなどを耳にいたしましても、心に強い衝撃をお受けになったり、思ってもいない事に出会われたりして、それがご出家のきっかけになりますとか。そんなことも良くない事と言われております――
つづけて、
「なほしばし思しのどめさせ給ひて、宮たちなどもおとなびさせ給ひて、まことに動きなかるべき御有様に、見奉りなさせ給はむまでは、乱れなく侍らむこそ、心安くもうれしくも侍るべけれ」
――やはりもう少し(ご出家を)お延ばしになって、皇子方が成長され、東宮の御地位もゆるぎないという所をご覧になるまでは、今のままでお変りなくいらっしゃっていただけましたら、私も安心ですし、心嬉しゅうございます――
と、思慮深く申し上げるご様子は、まことに整っていらっしゃる。源氏は源氏で、
「故后の宮のかくれ給へりし春なむ、花の色を見ても、まことに心あらばと覚えし。それは、大方の世につけて、をかしかりし御有様を、幼くより見奉りしみて、さるとじめの悲しさも、人よりことにおぼえしなり。自らとりわく志にも、物のあはれはよらぬわざなり」
――故后の宮(藤壺中宮)がお崩れになった春は、桜の花を見ても、心底「桜も、心あらば墨染に咲け」と思ったほどでした。だれしもが世にも美しい方とお見上げ申していたお姿が、私には幼い頃から目に沁みついていて、ご臨終の悲しさも人よりはずっと深く覚えたのです。あはれを感ずるのは個人的な特別な間柄にはよらないものです。(一般的な感慨とし、藤壺との秘密の関係を悟られまいとの弁解)――
◆見奉りしみて=御見上げし目に沁みて
◆「桜も、心あらば墨染に咲け」=古今集「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け」
ではまた。
四十一帖 【幻(まぼろし)の巻】 その(12)
明石の御方は、なお源氏にお話になります。
「さやうにあさへたる事は、かへりて軽々しきを、もどかしさなども立ち出でて、なかなかなる事ども侍るを、思したつ程鈍きやうに侍らむや、つひに澄みはてさせ給ふ方、深う侍らむと、思ひやられ侍りてこそ」
――そのように単純なご出家では、却って軽々しいとの非難も立ちましょう。なまじご出家などなさらない方がましなこともありますものを。容易にご決心のつかない方が、一旦ご出家の後は、ご道心が固くお達しになれましょうと存じまして――
さらに、
「いにしへの例などを聞き侍るにつけても、心におどろかれ、思ふより違ふふしありて、世をいとふついでになるとか。それはなほわるき事とこそ」
――昔の例などなどを耳にいたしましても、心に強い衝撃をお受けになったり、思ってもいない事に出会われたりして、それがご出家のきっかけになりますとか。そんなことも良くない事と言われております――
つづけて、
「なほしばし思しのどめさせ給ひて、宮たちなどもおとなびさせ給ひて、まことに動きなかるべき御有様に、見奉りなさせ給はむまでは、乱れなく侍らむこそ、心安くもうれしくも侍るべけれ」
――やはりもう少し(ご出家を)お延ばしになって、皇子方が成長され、東宮の御地位もゆるぎないという所をご覧になるまでは、今のままでお変りなくいらっしゃっていただけましたら、私も安心ですし、心嬉しゅうございます――
と、思慮深く申し上げるご様子は、まことに整っていらっしゃる。源氏は源氏で、
「故后の宮のかくれ給へりし春なむ、花の色を見ても、まことに心あらばと覚えし。それは、大方の世につけて、をかしかりし御有様を、幼くより見奉りしみて、さるとじめの悲しさも、人よりことにおぼえしなり。自らとりわく志にも、物のあはれはよらぬわざなり」
――故后の宮(藤壺中宮)がお崩れになった春は、桜の花を見ても、心底「桜も、心あらば墨染に咲け」と思ったほどでした。だれしもが世にも美しい方とお見上げ申していたお姿が、私には幼い頃から目に沁みついていて、ご臨終の悲しさも人よりはずっと深く覚えたのです。あはれを感ずるのは個人的な特別な間柄にはよらないものです。(一般的な感慨とし、藤壺との秘密の関係を悟られまいとの弁解)――
◆見奉りしみて=御見上げし目に沁みて
◆「桜も、心あらば墨染に咲け」=古今集「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け」
ではまた。