2010.3/29 690回
四十一帖 【幻(まぼろし)の巻】 その(15)
「五月雨はいとどながめくらし給ふより外なく、さうざうしきに、十余日の月はなやかにさし出でたる雲間のめづらしきに、大将の君御前に侍ひ給ふ」
――五月雨の頃はただただ眺め暮らしているほかなく、寂しい折に、丁度十日余りの月がはなやかに照らした雲の晴れ間に、夕霧が源氏の御前に伺候なさいました――
花橘が月影にあざやかに浮かび上がり、薫物の香りも風に吹き送られて、時鳥(ほととぎす)の声も待たれるその時に、にわかに雲が広がって、まことに生憎なことに恐ろしい程の雨が降って来ました。燈籠も吹き消され、空が真っ暗になるほどの時に、源氏は、「窓をうつ声」などという古詩を口ずさんでいらっしゃる。この折に相応しく、あの紫の上にお聞かせしたいお声です。
「独り住みは、殊にかはる事なけれど、あやしうさうざうしくこそありけれ。深き山住みせむにも、かくて身をならはしたらむは、こよなう心澄みぬべきわざなり」
――独り住みというものは、別段変ったこともないが寂しいものだね。山寺に住むに、今からこうして独り住まいに慣らしておくなら、きっとこの上なく心が澄むにちがいないね――
などとおっしゃって、
「女房、ここに、くだものなど参らせよ、男ども召さむもことごとしき程なり」
――誰か、こちらに果物でも差し上げなさい。男どもを呼ぶにはことごとしい時刻だ――
夕霧は、源氏がただただ空ばかり眺めておられるご様子が、いかにも痛々しくて、こうして紫の上の事が忘れられないようでは、仏道修行に専念なさることはむずかしいのではないかと、ご心配になるのでした。
「ほのかに見し御面影だに忘れ難し、まして道理ぞかし」
――あの野分の朝、ほんの一瞬お見上げした紫の上の面影でさえ、忘れられないのだから、ましてや源氏のお気持は当然のこと――
と、夕霧は思って控えていらっしゃる。それから源氏に、
「昨日今日と思ひ給ふる程に、御はてもやうやう近うなり侍りにけり。いかやうにか掟て思召すらむ」
――紫の上のご逝去がつい昨日のような気がしますうちに、一周忌も次第に近づいてまいりました。ご法事はどのようになさるおつもりでしょうか――
と、申し上げます。
◆御はて=御果て=忌中が果てた、一周忌
◆写真:橘の木
四十一帖 【幻(まぼろし)の巻】 その(15)
「五月雨はいとどながめくらし給ふより外なく、さうざうしきに、十余日の月はなやかにさし出でたる雲間のめづらしきに、大将の君御前に侍ひ給ふ」
――五月雨の頃はただただ眺め暮らしているほかなく、寂しい折に、丁度十日余りの月がはなやかに照らした雲の晴れ間に、夕霧が源氏の御前に伺候なさいました――
花橘が月影にあざやかに浮かび上がり、薫物の香りも風に吹き送られて、時鳥(ほととぎす)の声も待たれるその時に、にわかに雲が広がって、まことに生憎なことに恐ろしい程の雨が降って来ました。燈籠も吹き消され、空が真っ暗になるほどの時に、源氏は、「窓をうつ声」などという古詩を口ずさんでいらっしゃる。この折に相応しく、あの紫の上にお聞かせしたいお声です。
「独り住みは、殊にかはる事なけれど、あやしうさうざうしくこそありけれ。深き山住みせむにも、かくて身をならはしたらむは、こよなう心澄みぬべきわざなり」
――独り住みというものは、別段変ったこともないが寂しいものだね。山寺に住むに、今からこうして独り住まいに慣らしておくなら、きっとこの上なく心が澄むにちがいないね――
などとおっしゃって、
「女房、ここに、くだものなど参らせよ、男ども召さむもことごとしき程なり」
――誰か、こちらに果物でも差し上げなさい。男どもを呼ぶにはことごとしい時刻だ――
夕霧は、源氏がただただ空ばかり眺めておられるご様子が、いかにも痛々しくて、こうして紫の上の事が忘れられないようでは、仏道修行に専念なさることはむずかしいのではないかと、ご心配になるのでした。
「ほのかに見し御面影だに忘れ難し、まして道理ぞかし」
――あの野分の朝、ほんの一瞬お見上げした紫の上の面影でさえ、忘れられないのだから、ましてや源氏のお気持は当然のこと――
と、夕霧は思って控えていらっしゃる。それから源氏に、
「昨日今日と思ひ給ふる程に、御はてもやうやう近うなり侍りにけり。いかやうにか掟て思召すらむ」
――紫の上のご逝去がつい昨日のような気がしますうちに、一周忌も次第に近づいてまいりました。ご法事はどのようになさるおつもりでしょうか――
と、申し上げます。
◆御はて=御果て=忌中が果てた、一周忌
◆写真:橘の木