10月25日 金曜日 その2
欽明天皇陵の陪塚の石室が分離したものと考えられている。
こんだけ古墳があるので、石室や巨石は見慣れているはずなのに、鬼の仕業にした村人が不思議。
なんとこの石の管理は宮内庁!
①.鬼の雪隠
農道を西へちょっと走ると畑の中にまずは「雪隠」が見えてくる。
2.鬼の俎
道の反対側、斜面を登った林の中にある。
↓ 背面から入り口方面を見る
ステッチみたいな、大きい破線みたいのは、後の誰かが石を切り出そうとした跡だそうだ。
Ⅴ.天武・持統天皇陵
「鬼の雪隠&俎」が宮内庁管理であることに驚いて、やはり宮内庁管理の「天武・持統天皇陵」にも寄ってみた。どーせ、入れないけど。
今調べたら、ちゃんと天武天皇と持統天皇のお墓なのに、1235年に滅茶滅茶な盗掘をされていた。気の毒だ。
↓ 後側から見た、古墳部分
Ⅵ.亀石
畑の中に唐突に現れる。40年前に飛鳥に行った時より謎が解明されてきた石が多い中、この子は未だ謎のまま。
可愛い! 亀というよりカエルに見える。吉備姫王墓の猿石などとは全くデザインが違っているので、別の流れのような気がする。益田岩船に似てる。
「亀石は当麻の蛇の仕業で湖が干上がって死んでしまった亀を弔ったもので、元は北向きだったものが現在の南西へと向きを変えており、亀が当麻の方向である西を向いた時、大和国一帯が泥の海に沈むという怖い伝説も残されています。」怖っ!
おおらかなラインだ。
↓ 背面 翌日行った益田岩船のようなメロンパンみたいな大きい格子状の模様が見える。
Ⅶ.橘寺
「創建年代不詳。文献に初めて登場するのは天武9年(680)。聖徳太子誕生の地といわれ、太子建立の7カ寺の一つ。当初は66もの堂宇が立ち並ぶ大寺院で四天王寺式伽藍配置をとっていた。現在は江戸期に再建された本堂(太子殿)など、わずかな諸堂を残すのみとなっている。室町時代の聖徳太子像(重要文化財)をはじめ、善悪2つの顔が刻まれた二面石などがある。境内には3つの副柱の穴をもつ塔心礎が残る。」
①本堂
②目的の二面石!
やっぱり、猿石の仲間のような気がする。これも、今日最後に行った飛鳥資料館庭園に、もっと顔が見やすいレプリカがあった。
私は二面両方共、邪悪な顔にしか見えないのだが・・・。私の心は邪悪なのだろうか?
③方丈池
④往生院(限定公開)
念仏写経研修道場として平成9年(1997)に再建された往生院。その格天井には現代画家らが競作した260点の花の天井画。
⑤五重塔跡の塔心礎
「一辺2.7mと巨大な塔礎石は、中央には直径約1mの孔が開いています。その周囲には3か所の突出部があり、添え木を入れるために設けられたものと考えられています。橘寺の五重塔は平安時代後期の久安4年(1148)に落雷で焼失し、鎌倉時代の文治年間(1185~1189)に三重塔として再建されましたが多武峰の焼き討ちで再び焼失。以降再建されずに礎石の一部のみが残されています。」
孔は橘の形になっている。
⑥三光石&阿字池
「三光石は、 聖徳太子が勝鬘経を講讃した際、日、月、星の光を放ったという。阿字池 - 梵字の「ア」を形どって聖徳太子が作ったという。」
太陽・月・星の光ってなんだ?
「推古14年秋7月(606年)、聖徳太子は天皇の仰せによって勝鬘経(しょうまんきょう)を三日間にわたって御講讃になった。
その時、大きな蓮の花が庭に1mも降り積もり(蓮華塚)、南の山に千の仏頭が現れ光明を放ち(仏頭山)、太子の冠から日月星の光が輝き(三光石)、不思議な出来事が起こったので、推古天皇は驚かれて、この地にお寺を建てるように太子に命ぜられた。」
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