◎朝鮮を来して清を窺い、南州を取りて印度を襲わん
昨日の続きである。香川政一の『松陰逸話』(含英書院、一九三五)から、第三次日韓協約の調印(一九〇七年七月二四日)の直後における、伊藤博文の逸話を紹介している。本日は、その三回目(最終)。明日は、話題を変える。
抑〈ソモソモ〉松陰先生が朝鮮の気にかけられるといふのは何の故でせうか、これには少しく御話があります、安政三年〔一八五六〕八月一日先生から、幼時指導を受けられた山田頼毅〔宇右衛門〕翁に与へられた書に、
「満洲を収めて魯に逼り〈セマリ〉、朝鮮を来して〈キタシテ〉清を窺ひ、南州を取りて印度を襲はん」
といひ、又同年四月十八日来原良蔵〈クルハラ・リョウゾウ〉に与へられた書にも
「和親して二虜(露、米)を制し、間に乗じて国を富まし兵を強くし、蝦夷を墾して〈タガヤシテ〉、満洲を奪ひ、朝鮮を来して、南地を併せ、然る後に米を拉ぎ〈ヒシギ〉、欧を折く〈クジク〉、事成らざるなし、」
と言つて居られます、是は先生の地理学上から出た識見で、我国はどうしても大陸に立脚せねば、欧米と、対立することは出来ぬといふの意見であります、これはとても当時の他の攘夷家などの及ぶ所ではありません、
是で先生と朝鮮との関係も明かになりましたらうが、先生の語に奪ふとか襲ふとかいふことのありますのは、当時の常套語で、之を今日から見て侵略主義と解しては間違ひます、【以下略】