◎民族の指導者は大衆をその指導下に隷属させる
昨日の続きである。木下半治の論文「世界政治の潮流」(現代日本政治講座第一巻『現代政治の展開過程』昭和書房、一九四一、所収)を紹介している。
本日は、その第二節「現代世界政治の理念的基礎」の「4」を紹介してみよう。この部分で、木下半治は、ヒットラーのドイツ・ナチズムについて解説している。ページ数は三ページ弱しかないが(一三七~一三九ページ)、きわめて要を得た解説になっている。ムッソリーニのファシズムの解説に比べれば、かなり冷めた論調になっている印象がある。
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ヒットラー氏のドイツ・ナチズムは、その理論的構成においては、ムッソリーニのイタリー・ファシズムと若干のニュアンス〔微細な差異〕をもつ。ナチズムの特徴は、ファシズムの右の諸点のほかに、反ユダヤ主義、指導者原理及び独自の民族主義を挙ぐベきであらう。ナチスの反ユダヤ主義については、ドイツの経済及び社会生活におけるユダヤ財閥の跋扈〈バッコ〉といふ特殊の事情が考慮されねばならない。これに反し、イタリー・ファシズムにあつては、ユダヤ人の勢力さまで〔それほどまで〕大ならず、従つて反ユダヤ主義の主張もしかく〔それほど〕強烈でなかつた。しかるに、独・伊枢軸結成と共に、イタリーにも反ユダヤ主義の強化をみ、一九三七年〔昭和一二〕頃より漸くユダヤ人排撃の風潮並びに諸措置をみるやうになつた。イギリスのモズレー一派、ポーランドのピルスヅキー・ファシズムも反ユダヤ主義を強く主張し、ペタン政権〔フランス〕も、最近ユダヤ人弾圧を猛烈に敢行しつゝある。
ナチスの指導者原理は、ドイツ独特の理論である。ヒットラー総統の説くところによれば、民族には指導者がなければならず、然らざれば、その運命は没落あるのみである。民主主義、大衆主義を排し最良の民族に――従つて最高の人類にこの世界を変へんとする民族的世界観は、この民族の内部においても同様の貴族主義的原則即ち優越者原理に従ひ、最も優秀なる人物に当該民族の指導権と最高の勢力とを与へねばならぬ。民族協同体は優秀なる人物を大衆の上に配置し、大衆をその有能なる人物の指導下に隷属せしめねばならない。指導者(フューラー)とはかゝる優秀なる人物を指していふのであつて、その資格は、簡単にいへば、ドイツ軍律法にいはゆる「能力、態度、志操によつて軍隊を従属者となさしむるもの」である。ナチズムにおける指導者には権威はあるが権力乃至強力は必要としない。何となれば、指導者はその能力、その志操等々によつて一般国民の心服を得るのであるから、権力を以て強制する必要をみないのである。権力は必然に独裁に導く。権威はさうではない。これが指導者と独裁者との区別の要点である。指導者の行動原理はプロシヤ軍隊の優れたる原則即ち「各指導者の権威は上から下へ、全責任は下から上へ」といふことにある。即ち、被治者は治者を選定する権をもたず、あらゆる場合において各層の指導者が上に対して責任を負ひ、下に対しては権威を以て臨むのをいふのある。
最後にナチスの民族論であるが、通常民族とは人種、言語、風俗、歴史等を共通にする人間の協同体をいふが、ナチズムによれば、総べての国家権力は民族より出づるを要し、民族こそは決定的なる政治価値である。而して自らをば本質的協同体として意識し、他民族に対して政治的意思的協同体として感ずる歴史的民族を国民といふのであり。従つて、民族と国民とは本質的には異なる概念ではないのである。
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