礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ファシズムは「デモクラシーの最も純粋なる形態」である

2016-07-03 08:57:57 | コラムと名言

◎ファシズムは「デモクラシーの最も純粋なる形態」である

 昨日の続きである。木下半治の論文「世界政治の潮流」(現代日本政治講座第一巻『現代政治の展開過程』昭和書房、一九四一、所収)を紹介している。
 同論文は、全五節からなるが、本日は、その第二節「現代世界政治の理念的基礎」の「1」の一部、および「2」、「3」を紹介してみよう。いずれも、木下半治が、ムッソリーニのファシズム理論を「肯定的に」(そう読める)解説している部分である(一二七~一三七ページ)。
 昨日、引用した部分のあと、次のように続く。

 第三に〔ママ〕、ファシズムは、職能組合主義(コルポラティズム)を採る。即ち、ムッソリーニによれば、ファシズムは、右の如く社会主義及び階級的サンディカリズムは否定する。しかしながら、それは、社会主義並びに階級的サンディカリズムを発生せしめた現実的要求に関しては、国家の許し得る範囲内においてこれを認めんことを欲する。即ち、ファシズムはこれらの経済的利害を国家の統一性の裡〈ウチ〉において調和せしめるところの、コルポラティズム制度を主張するのである。
 このコルポラティズムについては、吾々はもう暫くその前に立ち停まることを必要とする。【このあと、木下は、約六ページを費やして、コルポラティズム(Corporatism)のついて解説しているが、割愛】
   2
 ムッソリーニムは民主主義を否定する。
 ムッソリーニによれば、各個人はその利害範畴中に従つて、それぞれ階級を形成する。彼等は独自の経済的利害に従つて、組合を作る。しかしながら、彼等は何よりも前に「国家」なのである。国家は国民の大部分を構成する個人の数的結合でもなければ、その集合でもない。これに反し、民主主議は、国民を以て個人の多数者の集合となし、国民を個人にまで低下する。ファシズムはかゝる民主主義による国家及び国民の低俗化に反対し、かゝる民主主義を断乎として否認するものである。ムッソリーニによれば、第一次大戦は種々の美点をもつたが、なかんづく「民主主義の世紀、数【ノンブル】の世紀、多数者【マジヨリテ】の世紀、量の世紀を血の流れによつて清算したといふ意味において、『革命的』であつた」のである(註一)。彼は、国民をば、かゝる個人の集合、個人の多数者とみずして、質的なる単一体とみ、最も堅固なる、最も道義的なる、且つ最も張力なる観念とみ、全体的意思の統一的表現とみる。かゝる意味においては、ファシズムは「デモクラシーの最も純粋なる形態」ともいひ得るのである。
(註一)Mussolini, De quel côté va le monde (Gerarchia, 1922)
 ファシズムはまた国民主義である。この点については、今更ら絮説〈ジョセツ〉する要をみないと思はれるが、ムッソリーニの意味する国民とは、右に述べし如く、決して単なる個人の数的集成ではなく、一個の純粋なる観念である。
 次ぎにファシズムは何よりも国家主義である。「国家が総てゞあり、国家に反して何ものもなく、国家の外部【そと】に何ものもなし」といふムツソリー二の有名狂る言葉(註一)は、ファシズムの特徴を最も端的に表現するものといはねばならぬ。即ち、ファシズムにとつては、総ては国家の中にあり、国家を外にしてはいかなる人間的なるものも、精神的なるものも、また価値あるものも存在しないのである。かゝる意味においては、ファシズムは全体的であり、ファシスト国家はあらゆる価値の綜合であり、統一であつて、一切の国民生活を解釈し発展せしむるものである。即ちそれは、最も崇高なる、且つ最も強力なる人格の形態であつて、一〈ヒトツ〉の道義力であり、人間のあらゆる精神的・知性的生活形態を要約する力である。換言すれば、それは「魂の魂」なのだ。
(註一)一九二七年〔昭和二〕五月二十六日、下院における演説。
 最後にファシズムは権威を重しとする。ムッソリーニによれば、ファシズムは単に立法者やあれこれの制度の創始者に止まるものではない。それはまた教育者であり、精神生活の推進者でもある。それはたゞに人類生活の形式のみならす、その内容――即ち人間、人格、信仰をも改造せんと欲する。かゝる目的を達成するために、ファシズムは、人間精神の奥底に徹しそれを完全に支配する規律を、権威を欲する。これ即ち、ファシズムが統一・力・正義の象徴たる「リクトゥールのファシオ」を徽章〈キショウ〉とする所以であると。
   3
 ムッソリーニによるファシズムの原理は以上の如くである。吾々はなほこの上に、精鋭主義、神話説、戦闘主義等々の諸原理を付加することが出来るであらう。反議会主義がファシズムの不可分の要素をなせるか否かにっいては誰が分れるが、一九三九年〔昭和一四〕三月までイタリアに上下両院が厳として存在せしこと、またナチス・ドイツが未だ時に応じて議会を招集して重大問題の報告をなせること、独・伊以外のファシスト国家においても議会の廃止は絶対条件に非らざることに鑑みれば、ファシズムと議会主義廃止とは必然的連関性なく、たゞ議会の無力化といふことが大なる特徴として挙げらるべきであらう。

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