礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

斎藤英和中辞典を手にして天意を感じた

2017-07-24 03:40:32 | コラムと名言

◎斎藤英和中辞典を手にして天意を感じた

 昨日の続きである。『山形大学 英語英文学研究』第3号(1957年3月)から、田中菊雄「英語遍歴五十年」という文章を紹介している。本日は、その二回目。
 昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 数え年十九の一月から村〔上川郡鷹栖村〕の教師となった。それからの約七年間、私は幸いこも尋常一年から高等二年まで持ち上って教えることを通して普通学をやゝ高級の程度に学ぶと共に、いよいよ将来の専攻をきめるべき大事な時機であった。自分はあらゆる学科に興味を感じて迷いに迷った。数学、生物、音楽などに進もうと思ったこともあった。遂には当時三省堂から出版された日本百科大辞典を克明に読んで、自分は日本人の文化活動のどういう分野に最も適するかを考えて見ようとした。ある時「花魁【おいらん】」の語原を読んで言語の研究に深い面白味を覚え、やはりこの方面に道もうと思って国漢英の研鑚に力を集中した。ある時はまた一生小学教師としてペスタロッチの辿ったような道を進もうかと思い、ある倫理学の書物を買いに旭川市まで走るように行ったこともあった。その時書店に求める書物がなくて斎藤〔秀三郎〕英和中辞典の新版が来ていた。その辞書を手にした時、何かしら天意をそこに感じ、あの辞典があたかも自分一人のために書かれたような気がして抱いて帰ったこともあった。赤い表紙の斎藤英和と青い表紙の井上〔十吉〕英和とを肌身離さず使って、カーライル、エマーソン、ラスキン、アービング、ゴールドスミス、それからダイトンの註でシェクスピアを熟読し、遂にはセンチュリーの大辞典を買い込んだ。この辞典ほど自分の知識欲を満足させてくれたものはなかった。又一方旭川中学(当時の上川中学)の外人教師として来て居られたチャンドラという老婦人について、バイブルとバンヤンの天路歴程を勉強した。五年間どんな嵐の夜にも一度も休まず週三回ずつ村から旭川市まで往復四里の道を徒歩で通った――といえば勉強家のように聞えるが、実は私は気が弱くて、私を待っていて下さる先生を失望させるに忍びなかった――たゞ勉強したいという一念が私をあらゆる誘惑から救ってくれた。当時私の近視はもう大分ひどく、随分煩悶もしたが、一体眼は何のためにつているのか、自分の眼はたゞ書物を読むための眼である。よしさらば盲になるまでという気持であった。
 またこの小学校教師時代に英訳でアラビアン・ナイト、グリム、アンダーセン、イソップなどを毎日読んで行っては昼食後の僅かの休憩時間に受持ちの生徒に連続して数年に亘って話をあいた。私の物語をよろこぶ生徒がかわいゝ一念で読みつゞけた。この小学校〔鷹栖小学校〕が最近開学六十周年の祝をするということで私がその学校図書箱へ自著を一揃い送ってあげたところが、北海道の新聞にトップ五段抜きで、にこにこして私の書物を開いて見ている可愛い子供たちの写真を載せた記事が出たのには驚いた。
 その学校の今の校長も教頭も、昔尋常三四年時代に私のアラビア夜話を聞いた人たちであったと聞いて感慨無量である。
 幾度か〔夏目〕漱石先生の許へ行こうと思いなやんで見たが、貧しい父母の暮しを見るとそのことを切り出すに忍びないで、独学孤習の道をつゞけているうちに大正五年(1916)十二月十五日漱石の訃を新聞で見た時の私のショックは言うに言われぬものがあった。香奠を差上げたお返しに「ふくさ」を送って下すった。その小包が破損して村の郵便局に着いているので、とりに来るようにという局からの通知があって、私は暮れ迫る雪の山路を越えて二里ほどある二線十号の村の本局まで行ったが、その帰り、降り積る雪の峠にその小包を抱いて倒れて、もう薄志弱行の自分はこのまゝ、こゝで果てた方がよいと悲しんだ。
 その翌年夏休に上京して正則英語学校で斎藤秀三郎〈ヒデサブロウ〉先生の夏季講習を受けて感激し、遂に上京の決心を固めて、その年の暮、教え子たちに村はずれまで送られて泣いて別れを告げた。男子志を立てゝ郷関を出づ……の気持をあの時ほど切実に味ったことはなかった。

 ここまでが、「1.独学孤習の十年」である。このあと、「2.鉄道省の四年」に続くが、これは次回。

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