◎左右の高官すべて凡人、勇将賢臣は用いられず
昨日の続きである。東久邇宮稔彦著『一皇族の戦争日記』(日本週報社、一九五二)から、敗戦の年(一九四五年)のちょうど今ごろの記事を紹介している。
本日は、一九四五年七月二八日から八月六日までの記事を紹介する。
七月二十八日(土)
午前十時、P-51約三百機、関東地方に来襲。今朝の新聞は英国総選挙の結果、保守党が敗れ、労働党が絶対過半数を獲得し、労働党党首アトリーが新内閣を組織し、チャーチル内閣は総辞職したことを報ず。
また、新間はポツダムからの放送として、米国大統領トルーマン、英国首相チャーチル、および蒋介石の連名で、日本降伏の諸条件を発表している。(注)
(注)トルーマン、チャーチル、スターリン三巨頭会談は、七月十七日から八月二日まで西ドイツのポツダムにて行われた。ポツダム宜言は七月二十六日発表されたが、スターリンは署名せず。
七月三十日(月)
今暁、敵艦戦機約二百機、関東各地の飛行場を攻撃す。
川崎別荘の本棚に「水滸伝【すいこでん】」の日本訳があつたので、時々読んでいるうちに本日読了す。私は徐州戦の時、梁山泊【りようざんぱく】の付近を通つたことがある。この本の結論は、皇帝賢明ならず、左右の高官すべて凡人で、しかも公然賄賂【わいろ】をとり、賄賂を贈らないものは重用されない。また人の功をねたみ、勇将、賢臣は用いられず、用いられたものは毒殺されたり、あるいは遠ざけられて終りを完うしていない。故に、人は功成り名遂げたならば、官職を辞して隠退してしまい、余生を安静に清く送り、終りを完うしようとしているというにあるらしい。これは今も昔も、また支那も日本も変らないと思う。
八月三日(金)
午後一時、緒方竹虎来たり、対米および対ソ外交について話す。同二時中山〔輔親〕侯爵も来たり、時局談をする。
八月六日(月)
午前八時、警報発令。P-51約百三十機、帝都を中心に各地に来襲。
このあとの日記の紹介は、八月にはいってから再開する。