◎8月4日に軽井沢から入生田に帰ってきた
先月一七日から二〇日にかけて、富田健治著『敗戦日本の内側――近衛公の思い出』(古今書院、一九六二)から、その第四一号「対ソ仲介交渉」を紹介した。
本日は、その第四二号「終戦の詔勅下る」を紹介したい。一九四五年(昭和二〇)の、ちょうど今ごろの話である。
(四二)終戦の詔勅下る
(昭和三十四年四月十日記)
前に述べた通りソ連の仲介に依って大東亜戦争を終結させようという陛下の御考え、又この仲介依頼のための特使として近衛〔文麿〕公をソ連に派遣することに関して、ソ連の要求に応え、七月二十三日、我方からは詳しくモスクワに電報を打ってやったのであるが、荏苒〈ジンゼン〉ソ連の回答はなされず、そしてこの間アメリカの空襲は激化され、徒らに日本側が焦燥するのみであった。そして遂に昭和二十年七月二十六日連合国による「ポツダム宣言」が発せられることになった。この宣言の中には、日本に対する「条件」が記されてあるから「無条件」というものでないと説く人もあるが、それは自己欺瞞であって、畢竟〈ヒッキョウ〉「無条件降服」を求めた宣言というべきであろう。ただ注目すべきは、ソ連がこの時はまだ宣言に参加していなかったことで、言うまでもなく、当時、日ソ両国はなお中立条約の締盟国だったのである。
このポツダム宣言に対して、〔鈴木貫太郎〕首相並に〔東郷茂徳〕外相は、暫くソ連の出方を見て処理したいという考えであった。所が二十七、八両日に亘って行なわれた最高戦争指導会議や、政府統帥部の連絡会議では、強硬論が勝を制し、鈴木総理も、記者会見に於て、ハッキリ、この宣言を「黙殺」することに決めたと述べ、この談話は大きく新聞に報道された。そしてこれが又、連合国側に於て、ポツダム宣言を日本は「拒否」したものと受取られ、後になってソ連参戦の口実をも与える因となったのである。
近衛公はソ連の回答が一向に来ないので、一応七月下旬好きな軽井沢に行くことになったが、それでも東京のことが気になるので八月四日には又入生田〈イリウダ〉に帰って来た。そしてソ連仲介回答のこと、ポツダム宣言のことなどについて、集まった側近達と種々話合ったことであるが、その際酒井鎬次氏はソ連は回答をよこすまいという意見であり、近衛公はソ連は結局参戦するだろうと見ていたことは、今から考えて正しい見通しであった。そして昭和二十年八月六日、終に原子爆弾は広島に投ぜられたのである。勿論当時は強力な新型爆弾という程度にしか判らなかったが、日を重ねるにつれ、広島周辺の恐るべき惨害、そしてそれが、歴史上未だかつて経験せざりし原子爆弾の投下によるものであることが追々判明してきた。
広島の原爆投下によって、事態は窮迫してきた。八月八日近衛公は小田原を立ち東京に出て、木戸〔幸一〕内府と会見、原子爆弾の惨害、並にその後の政局につき、詳細に聞くことが出来た。そのとき木戸内府は、陛下もこの惨害の報告をお聞き遊ばされて、いよいよ非常の御決心をなされている。今は猶予することなく終戦に向うべきものだと、並々ならぬ決意のほどをもらされたことも、後に近衛公から我々は聞いたことであった。【以下、次回】