礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

日本語にはクイチエ・マヤ語が40%含まれている

2017-08-03 03:10:42 | コラムと名言

◎日本語にはクイチエ・マヤ語が40%含まれている

 一昨日、昨日と、ゼ・チャーチワード著(仲木貞一訳)『南洋諸島の古代文化』(岡倉書房、初版一九四二)という本について、紹介した。
 しかし、その「本文」については、まだ、一行も紹介していなかった。どの章を読んでも、紹介に値する内容があるとは思えなかったが、いちおう参考までに、「第二十九章 日本人及び支那人の起源」の全文を紹介してみよう。なお、明日は、話題を変える。

  第二十九章 日本人及び支那人の起源
 日本国は、伝説に依ると、クイチエ・マヤ族の一派が、ムー帝国からマレイ群島に赴いたものゝ内の或一派であると云はれる。この移民団は、マレイに暫く居を占めてゐた後に北行して新領土を得たのである。それが、日本人の祖先である。日本人も亦それを是認してゐる。然し、日本にある伝説とは少し違つてゐるが、材料的には合致する。
 この移民団は、日本に到着した時、高い文化を築き上げ、教養を楽しみ、地上最高の文明を持つに至つた。今日凡ての点に於て、近代的の高位置を占め、最も進歩的な民族であることは、五六十年間に大変化を行つたことでも知られる。この国の数百年前の様子を見ると、宛も〈アタカモ〉一萬五千年前のムー帝国を見るかの感がある。この国の国旗は、ムー本国から持つて来た所の太陽の象徴である。この国は太陽の帝国である。古代宗教の概念は、ムー母国の象徴を持つてゐる。各種の習慣は、世界最初の文明と関係を持つてゐる。
 智識人は、日本人をモンゴルと信じてゐるが、これは大なる誤りである。白人と黒人と違ふが如くに、日本人と蒙古人とは違ふのである。日本人は、ムー母国のクイチエマヤの子孫である所の白人種の一種なのである。日本語には、今日クイチエマヤ語が四〇パーセント含まれてゐる。
 支那の文明は古いと云つても、たかだか五千年にしか過ぎない。その文明は、支那人自身で作つたと云つてゐるが、それは嘘で、母国ムー帝国の伝承に過ぎないのである。
 支那人はモンゴリア人の如く見えるけれども、モンゴリア人はこの国に半分しか居ないで、祖先は白色人種のアリアンであつたのである。回紇〈ウイグル〉帝国の時、白色回紇人が南方の黄色蒙古人【モンゴリアン】と結婚をして、そして子孫を儲けたのであつた。その時に出来た文明が、第一期の物である。記録に依ると「回紇人黄色奴隸中の最良の者と結婚した」と記してあるが、これは誤りであつて、奴隸と云ふものはその当時に無かつたものである。黄色蒙古人は、智識程度の低いものである。多くの支那人は頗る高級であつて、色も白い、智識程度の低い苦力【クリー】には、回紇人の血は流れてゐないのである。この苦力は黄色蒙古人の子孫なのである。
 回紇人の父母達は、雑婚に依つて出来た子供達を、回紇式に教育して、そして、大文明を作らせたのである。それに関する多くの記録は、タオ寺院に残つてゐる。支那学者の中の少数者もそのことは認めてゐる。「日の昇る遠い国から来たもので、アジアに生れた者でない」と云ふ伝説が支那にはある。尚支那古代の各王朝は、神話的、伝説的のものである。回紇大帝国亡んで七八千年間に、東方アジアに多数の小国が出来たが、これは、皆モンゴリア型のものである。その中でも、最も大きいのはタルタル族で、成吉思汗〈ジンギス・カン〉と忽必烈〈フビライ〉は、その代表的人物である。孔子は紀元前五五一年から四八〇年迄ゐたのだが、彼の後三百年後に、初めて支那の歴史は現はれたのである。紀元前二一四年に秦の始皇帝は支那に関する文書を焼却して、孔子其他の文書も姿を消したが、然し、全部が焼かれた訳でなくその残本は、今日タオ寺に保存されてゐる。

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