礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

これには温厚な米内光政も激怒した

2017-08-12 03:09:53 | コラムと名言

◎これには温厚な米内光政も激怒した

 高木惣吉著『終戦覚書』(弘文堂書房、一九四八年三月)〔アテネ文庫12〕から、「九 悲しさ終止符」を紹介している。本日は、その二回目。
 昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 会議の収拾をもてあました総理〔鈴木貫太郎〕は遂に、聖断を仰いで会議の決定としたいと一同に諮り、御前にすすみでてそのことをお願いした。
 陛下は連日の心痛と夜を徹しての重大会議にも拘らず、疲労を忘れて熱心にその推移を聴いておられたが、総理の願いで稍々〈ヤヤ〉上半身を起され
「それでは私が意見をいうが、私は外務大臣〔東郷茂徳〕の意見に賛成である。
 開戦以来已に〈スデニ〉四年もたつて、陸海将兵の勇戦、有司の精励、国民一般の奉公にも拘らず、戦局日に不利となつて、世界の大勢も亦わが国に有利ではない。のみならず、敵は新たに原子爆弾を使用して、惨害の及ぶところ予測できないものがある。
 開戦以来の陸海軍の善戦はこれ認めるが、実施のあとを顧みれば、計画と実際との間には非常な懸隔があつたことは争われない。もし戦争を継続すれば、今後においても亦今まで同様の事態が起らないとは保障しえないとおもう。もしこの上交戦を継続すれば、終にはわが民族の滅亡を招来するばかりでなく、延いては〈ヒイテハ〉人類の文明をも破壊するだろう。私は戦陣にたおれ、職域に殉じた国民と、その遺族のことを思えば、真に断腸の念に堪えない。また戦災を蒙つたもの、家を失つたもの、家業を失つたもののことは痛心の至りであるが、忍び難きを忍んで、後世のために平和の途を開こうとするものである。
 私一身のこと、皇室のことも留保するに及ばぬ」という御言葉であつた。
 午前三時、うちつづく興奮と疲労に寠れて〈ヤツレテ〉一同は退出し、総理官邸で待ち佗びた閣僚と再び閣議が開かれた。
 七時、スイスを通して米支に又スエーデンを通して英ソに通達するよう、それぞれ両国駐剳〈チュウサツ〉公使宛に訓電がとんだ。訓電の中に、ポツダム宣言には、天皇の国家統治の大権を変更する要求を含んでいないとの了解の下に、右宣言を受諾する旨の字句があつたことはいうまでもない。
 御前会議の決定方針を発表する件に就ては、その形式で又閣議がもめ、結局、情報局総裁から、国体護持が今次戦争の最後の一線であるという発表をした。すると時を措かず、陸相から全軍に与うる諭告なるものが公表され、それは情報局声明のものとは全く対蹠〈タイセキ〉的なもので、本土決戦のために全軍須らく〈スベカラク〉、革帯を締め直せという意味のもので、国民はこれで愈々本土決戦かと思いこんだのも尤もなことであつた。
 十一日からの数日は、動揺と混乱の表徴的時期であつた。陸軍のクーデター気勢は刻々と高まり、海軍の決戦論者も必死になつて終戦の妨害につとめた。鈴木は唯陛下の指図〈サシズ〉を仰ぐばかりで、自らはすこしも采配を振ろうとせず、梅津、阿南、豊田は決戦論に取り憑かれ、重臣は何れも安全地帯から見物という姿で決死の覚悟で和平に尽したのは米内、木戸のほか寥々たる小数にすぎなかつた。
 十二日早暁、桑港〈サンフランシスコ〉放送は連合国の回答を示唆した。ところが両総長はすぐに参内して、連合国の要求を受諾することの危険なことを奏上した。これには温厚な米内も激怒して豊田〔豊田副武軍令部総長〕、大西〔大西瀧治郎軍令部次長〕をよびつけ、はげしく両提督を詰つた〈ナジッタ〉が後の祭りであつた。【以下、次回】

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