◎耐へ難きを耐へ忍び難きを忍び一致協力
本日は、下村海南著『終戦記』(鎌倉文庫、一九四八年一〇月)を紹介してみたい。
同書は、全三十三章からなるが、その第二六章「御前会議」の前半の三節は、一九四五年(昭和二〇)八月一四日に開かれた「御前会議」の模様を、かなり詳しく描写している。
著者の下村海南(本名・下村宏)は、鈴木貫太郎内閣の国務大臣兼内閣情報局総裁として、この御前会議に列席していた。しかも、会議終了後、ただちにメモを作成したという。したがって、同書第二六章における三節の記述内容は、かなり信頼性が高いと見てよいのである。
第二六章 御前会議
第六三節 鈴木首相の具状
夢結ばれざりし十三日の夜も明けて、八月十四日火曜日午前十時の定例閣議に先だち、首相官邸の閣議の控へ室には、憂色をたゝへし閣僚は三々五々耳語〔ひそひそばなし〕を交してゐる。今や和平論に対し甲論乙駁市井至るところ混乱状態に入らんとし、一部強硬論者は右翼団体軍の中堅将校等と相まちて不穏の空気をかもしはじめつゝある。
十時近くであった、御召により十時半に参内せよとの知らせがある。此朝早朝首相〔鈴木貫太郎〕は宮中に参内して経過を言上し、 官邸にかへり間もなくであつた。けだし直前に参内せし結果である事は疑ひない。いづれにしても早急の御召とて服裝はすべてそのまゝにて苦しからずとの事であつたが、それにしても御前にまかり出るのであるからあまりにも畏れ多いといふので、秘書官からネクタイを借りるものもあり、開き襟を詰め襟にと工夫をこらすもあり、秘書官の服と着かへるもある。私は国民服の有りがたさ、儀礼章を胸につけたまゝ、一同と宮中へ参内する。
吹上御苑〈フキアゲギョエン〉の大奥、六日以前に親しく咫尺〈シセキ〉して二時間にわたり言上したる生々しき思ひ出の御殿、といつても見るからさゝやかなる平屋の建物の玄関先に防空壕の入口がある。降りて墜道はかなり長い。やゝありて右に折れ会議室に入る。御席に面し二列の椅子がならんでゐる。右端から鈴木首相、平沼〔騏一郎〕枢府議長つゞいて阿南〔惟幾〕陸相等閣僚五六、左のはしが梅津〔美治郎〕参謀総長と豊田〔副武〕軍令部総長にてとまり、後列は我等残りの閣僚たち、その又うしろに池田〔純久〕綜合計画局長、迫水〔久常〕翰長、吉積〔正雄〕陸軍保科〔善四郎〕海軍両軍務局長が着席し、出御をお待ちしてゐる。直前の静けさ、しはぶきの声が静寂なる空気を折々に破つてゐるだけである。やゝありて蓮沼〔蕃〕侍従武官長の先導により出御あらせられる。一同長揖〈チョウユウ〉の後鈴木首相は恭々しく、その後の経過を漏れなく要約して言上した。閣議には約八割五分が原案に賛成せるも全員一致を見るに至らず、こゝに重ねて叡慮を煩はし奉るの罪軽からざることを陳謝し此席上にあらためて反対の意見ある者より親しく御聞取りの上重ねて何分の御聖断を仰ぎ度〈タキ〉旨具状したのであった。
第六四節 陸海総長と陸相の具状
首相の具状終りて両総長及び陸相は相次いで立ち、声涙ならび下りつゝ、此まゝ受けては、国体の護持が案じられるといふ観点から縷々切々〈ルルセツセツ〉条件を附するべしとの意見が具陳された。その内容は細々と紹介するまでも無い。只かうした具状を耳にしたがながら私の胸に湧きいづる感想は鈴木首相の屡々平時口にせし皇道と臣道どいふ事であつた。「君〈クン〉辱めらるれば臣死す」といふ古語がある。将軍たちはまさしくさうした心持ちであると察する。将軍たちは罪万死に当る。一身はもともと捧げてある。しかし此まゝでは君は辱しめられる。国体の護持は覚束ない〈オボツカナイ〉。懸念に堪へない。死中活あり必しも絶望したものでは無いといふ心持はいかにも軍人の面自として諒とせられるが、私より見ればかりに原子弾なくとも又ソ連の参戦なくとも、果して死中に活がありうるのであらうか。今や問題は君辱しめられるといふ程度のものではない。さらにさらに深刻なのである。今や国土も失はれ民族もあげてその滅亡を招来せんとしつゝある。本も子もなくならんとする時に、臣道よりも日本国と八千万の民族を念とする皇道のさらに重く且つ大なる事を念とせざるを得ないのであつた。
私は程近くの鈴木首相を見守つた。さらに米内〔光政〕海相を見守つた。海相である米内大将はかねてより私共に軍に成算なし一日おくれゝばそれだけ否、それに数倍の不利がある。少しでも早く温存すべしといふ事を明言してゐた。面子の上からのみ見ても、強気な大言を口にせず、敢然、敢て敢然といふ、敢然抜きたる刀を納むべしといふ。まさに真勇とはかゝるためしをさす事と思つた。或時海相は私に話した。「軍の当局に向ひ勝ち抜くくまで頑張るばかりといふが、果して勝ち抜くべき成算ありやとたづねると、それには返事は出来ないのですよ」といふのであつた。まさしく人間は生きもので何よりも先づ食無くんばあらず、今や食糧は眼に見えて欠乏を告げてゐる。敵は空の要塞B十七より超空の要塞B 二十九となり、さらに原子彈となつた。我は大砲より手榴弾となりさらに竹槍にならんとしつゝある。いづこに勝ち目があるか。今や国の総力は逆落し〈サカオトシ〉に急転直下しつゝある。
反対論が終つたのち賛成論をこそと期待したが、此前の御聖断により大勢は既に定まつてゐるからであらう、やがてお上のお詞〈オコトバ〉を拝承する事となつたのである。
第六五節 御 諚
(二〇、八、一四午前一一時)
御諚〈ゴジョウ〉はいひ知れぬ感激のあとであつて、そこには原稿もなく速記も無い。まだ亢奮のさめやらぬ中に私は生々しき心覚えのま、メモをとつたが、この御諚こそ終戦の中核をなすものであるから、左近司〔政三〕国務相太田〔耕造〕文相の両君の手記ともてらし合はし、さらに鈴木首相の校閲をへた。それだけに御諚としては最も真を写したものである事を明記しておく。
【一行アキ】
外に別段意見の発言がなければ私の考を述べる。
反対側の意見はそれぞれ能く聞いたが私の考は此前に申したことに変りはない。私は世界の現状と国内の事情とを充分検討した結果、これ以上戦争を継続することは無理だと考へる。
国体問題に就て色々疑義があると云ふことであるが、私は此回答文の文意を通じて先方は相当好意を持つて居るものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があると云ふのも一応は尤もだが私はさう疑ひたくない。要は我国民全体の信念と覚悟の問題であると思ふから、此際先方の申入れを受諮してよろしいと考へる、どうか皆もさう考へて貰ひたい。
更に陸海軍の将兵にとつて武装の解除なり保障占領と云ふ様なことは誠に堪へ難い事で夫等〈ソレラ〉の心持は私には良くわかる。しかし自分は如何にならうとも万民の生命を助けたい。此上戦争を続けては結局我邦が全く焦土となり万民にこれ以上の苦悩を嘗めさせることは私としては実に忍び難い。祖宗の霊にお応へが出来ない。和平の手段によるとしても素より先方の遣り方に全幅の信頼を措き難いことは当然ではあるが、日本が全く無くなるといふ結果にくらべて、少しでも種子が残りさへすれば更に又復興と云ふ光明も考へられる。
私は明治大帝が涙を呑んで思ひ切られたる三国干渉当時の苦衷をしのび、此際耐へ難きを耐へ、忍び難きを忍び一致協力、将来の回復に立ち直りたいと思ふ。今日まで戦場に在て陣歿し或は殉職して非命に斃れ〈タオレ〉たる者、又其遺族を思ふときは悲嘆に堪へぬ次第である。又戦傷を負ひ戦災を蒙り家業を失ひたる者の生活に至りては私の深く心配する所である。此際私としてなすべきことがあれば何でも厭はない。国民に呼びかけることが良ければ私は何時でも「マイク」の前にも立つ。一般国民には今まで何も知らせすに居つたのであるから突然此決定を聞く場合動揺も甚しいであらう。陸海軍将兵には更に動揺も大きいであらう。この気持をなだめることは相当困難なことであらうが、どうか私の心持をよく理解して海軍大臣は共に努力し、良く治まる様にして貰ひたい。必要あらば自分が親しく説き諭してもかまはない。此際詔書を出す必要もあらうから政府は早速其起案をしてもらひたい。
以上は私の考である。
大日本帝国の興亡を決すべき御前会議、建国以来まさに前古未曽有にして又将来再び有り得ず有るべからざる御前会議に列したる私としては、筆の命毛〈イノチゲ〉のつゞくかぎり、こと細かに委曲をつくし書きとめておかねばならないはずである。しかしそれは私の筆の及びもつかぬ事である。
諚御を承つてゐるうちに期せずしてこゝにかしこに涕泣の声が次第に高まつて来た。御諚のほどに惻々と胸を打たれ、たとひ一身はいかにあらうとも国は焦土と化し国民を戦火に失ひ、何んとして祖宗の霊にこたへんといふ心持をのべらるゝに至り、感激の涙はとめ度がなくなつた。更に「為すべき事あれば厭ふ事は無い。更にマイクの前に立つてよければ立つ」と仰せらるゝに至り、私としてはせき上げせき上げしやくり上げる涙は止どめもあへず、たしなみを忘れ、声をあげて慟哭した。一同席を立ちもあへず、長い長い地下道をよぎる間も、次で自動車の中も首相官邸に引上げても、溜りの間にも、閣議の席にも、思いだしてはしやくり上げしやくり上げ涙止め度なく流れる。私は記者の会談に出席してもせき上ぐる涙はとゞめもあへず、問ふ者も答へる者も遂に声を呑んでしまったのであつた。その夜もあくる日もその又あくる日も、思ひ出しては泣き思ひ出しては咽んだ〈ムセンダ〉、今一ケ月半の後この稿を筆にしつゝ、当時の思ひをしのび胸せまりて、筆はすゝまない。今宵はこゝに筆をとめる。
(二〇、九、二六 後九半)
第六六節 聖断を仰ぎし事例【略】
第六七節 宣戦と聖断【略】
第六八節 国体護持と憲法【略】