◎負けたこと自体は悪ではない(田中耕太郎)
田中耕太郎『教育と政治』(好学社、一九四六)から、「国民道徳の頽敗と其の再建」という文章を紹介している。本日は、その二回目。
三
我々は戦争に負けて降服した。是れ否定出来ない事実である。然らば我々は何故に戦争に負けたか。要するに始むべからざる、戦争を始めたから負けたのである。然らば我々は戦争の実力が十分備はつてゐないのに無謀な挑戦をして負けたのと見るべきか。さうした方面も存してゐることは疑ひない。然し戦争を始むべきや否やは国家の実力の充実不充実に依つて決すべきものではない。若し国家が戦力に於て充実してゐさへすれば、即ち勝つ見込がありさへすれば常に戦争を開始すべきものとするなら、是れ純然たる帝国主義的、侵略的態度といはなければならない。日本が戦争を始むべき倫理的理由が欠如してゐたことが、我々にとつての致命的の欠陥であつた。
我々は正しい者が常に勝ち、邪しま〈ヨコシマ〉な者が常に負けるのが此の世の常とは考へない。「勝つた方が良い」こともあるし、負けた方が正しいこともある。此度の戦争に関する限り、我が日本には戦争の正当原因即ちスコラ哲学者以来論じられたところのiusta causa, just causeが欠けてゐた。侵略的戦争は国際法違反であるのに拘らず、資源の獲得、勢力の伸長、国家の繁栄等の為めに或は大陸或は南方に手を伸ばした。王道主義や八紘為宇〈ハッコウイウ〉は此の侵略主義をカムーフラージユする為めの標語に過ぎす、占領地に於て我が軍が実行してゐたところは、其の標榜したところと甚だ程遠いものがあつた。
我々は負けること自体を恥としない。侵略的戦争に若し勝つたとしても、其れこそ大罪悪である。負けたこと自体が悪ではなくして、結果は如何んであれ倫理的に始むべからざる戦争を始めたことが悪なのである。若し太平洋戦争が標榜されてゐた如く真に自衛の目的に出でて〈イデテ〉ゐたとすれば、日本は実力で以て負けただけで、道義上は勝つてゐることになり決して敗戦を恥とする必要はなく、殉教者的満足を以て敗戦を光栄としてゐな〔ほ〕れるのである。然るに事実は然様〈サヨウ〉ではなかつた。我れには大義名分を欠き、而して天罰の如くに敗戦の結果を科せられたのであつた。〈一三九~一四一ページ〉【以下、次回】
すでに十一月だが、わが家に自生しているアサガオは、今朝も二輪が開花していた。ただし、三センチ弱の地味な花である。この時期のアサガオの花は、日が昇っても閉じることなく、ほぼ一日中、開いている。なお、アサガオの花というのは、よく見ると、五つの花弁があわさり、円形になっていることがわかる。