礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

刑法学者が観たタイトル不明のアメリカ映画

2022-11-21 00:26:18 | コラムと名言

◎刑法学者が観たタイトル不明のアメリカ映画

 先日、水道橋の丸沼書店の店頭から、『刑事法学』(評論社、一九五〇)を拾い上げた。「法律学全書」全二十五巻のうちの「9」にあたる。定価一八〇円、古書価二〇〇円。
 家に帰ってから開いてみると、中に「法律学全書月報」第十六号というものが挟まれており、同書の著者である江家義男が、「法学者の見た映画」というエッセイを寄せていた。本日は、これを紹介してみよう。

   法 学 者 の 見 た 映 画    江 家 義 男

 わたくしは、滅多に映画を見ない。しかしそれは、映画が嫌いだからでなく、講義の準備と原稿書きに追われる身として、映画館の前を通ることさえも殆んど無いからである。映画館に入るのは、大ものの原稿を書き終り、ホットした気持で、ブラリと外出した時のことである。だからわたくしは、若い人たちの体臭でムットする満員の映画館に入るのは御免である。なるべく観客の少ないところを選んで入る。そのためか、わたくしは、好評を博した映画に御目にかゝることが少い。それで、わたくしがこゝに持ち出す映画は、諸君にとつては、なじみの無いものであるかも知れないし、諸君には何らの印象も残らなかつたものであるかも知れない。だが、わたくしにとつては印象的であつたのである。確かに、それは印象的なものであつたにちがいない。なぜかなら、健忘症のわたくしが、いま漠然とながらも憶い出せるものだからである。だが、印象的であつたというのは、その映画が芸術的価値の高いものであつたからではない。それは、わたくしの法学的興味をそそつたからに過ぎない。
 これは比較的最近のアメリカ映画であつたと記憶する。但し健忘症のわたくしは、その題名をいま憶い出せない。或る農夫の啞娘が或る祭日の夜、村の不良青年に強姦された結果、子供を産んだのであるが、その青年は他の女と結婚してから、その子供を自分のものにしようと考え、妻には自分の子であることをかくし、子供を養育してやるという口実で、啞娘のところへ交渉に行く。はじめ夫が外で待ち妻が交渉したが、啞娘の猛烈な反対にあつて外に突き出され、妻は憤然としながらこのことを夫に告げる。この時、夫は「あれは俺の子だ」と口走りながら、家の中にかけ込み、子供を強奪しようとした。啞娘は鉄砲で男を射殺した。これが裁判になるのである。はじめ、啞娘は他の男と私通して子供を産んだものと見られ、非常に不利な立場にあつたが、殺された男の妻が証人台に立ち「夫は、あれは俺の子だといいました」と証言した結果、啞娘は無罪の判決を受ける、というところで映画は終る。
 さて、わたくしが興味を持ったのは妻の証言である。「あれは俺の子だ」という夫の言葉を聞き、これを公判廷で証言するのは、いわゆる伝聞証拠であつて、英米法では伝聞証拠は原則として排斥されるのであるし、わが国の新刑事訴訟法も英米法にならつて、同じ原則を規定している。(刑訴三二〇条)但し例外として、その供述が特に信用すべき情況の下にされたものであるときは、伝聞の供述も証拠になり得るのである(刑訴三二一条一項三号)。これを信用性の情況的保障というのであるが、わが刑事訴訟法には、その具体的内容が示されていないため、その適用上、非常に因難な問題が生じている。ところが、英米法には具体的事件について多くの判例があり、ある程度まで法則が確立しているのである。映画にあらわれた夫の言葉は、英米法から見れば、衝動的に発せられた自然的供述であつて、伝聞証拠の例外に該当するものなのである。この映画が、わたくしに印象的であつたのは、こんな意味合いのものであつた。
 これは、数年前にみたアメリカ映画である。或る客船が海難に遭遇した。勇敗な船員の一名が、荒れ狂う嵐の中で、ようやくボートを降し、船客を収容したが、海中にはボートに収容しきれないほど多くの船客が、浮きつ沈みつ、救けを求めてボートに殺到する。勇敢な船員は、すでに満員となつたボートの船客を救けるため、ボートにつかまろうとする海中の船客を楫〔ママ〕でたたき落し、ボートを漕ぎ出してボートの船客を救助した。上陸の後、この船員は殺人罪で起訴され、裁判の場面で映画は終りを告げる。
 おそらく、観客の大部分は、海難のスリルを感じ、船員の勇敢な行動に感激して、この映画に満足し、最後の裁判については余り興味を持たなかつたであろう。だが、わたくしはこの映画に、おそらく一般の人とは別な、或る興味を感じたのである。それは、緊急避難に関する英米法とわが刑法とのちがいである。わが刑法では、緊急避難のため他人の生命を奪うことも許されるが(刑法三七条)、英米法ではこれが許されていないのである。さて、この英米法を頭において、この映画をみるならば、最後の裁判の場面こそ、英米法に対する批判を示すものとして、法学者の興味をひくのである。
 最後に、エノケンの鞍馬天狗をみたことにしよう。あの映画で、エノケンが拷問にかけられる場面が出てくる。あの拷問は、算盤責〈ソロバンゼメ〉といわれるもので、責石〈セメイシ〉は伊豆石〈イズイシ〉で作り、長さ三尺厚さ三寸、目方は一個につき十三貫目、五枚を限度とする、というのが、徳川時代の定めであつた。こんなことを知つて、あの映画をみると、また変つた興味が出てくるものである。
 こんな映画の見方をするのは、わたくしだけであるかも知れない。わたくしは、芸術の冒瀆者であろうか。

 筆者の江家義男(こうけ・よしお、一九〇三~一九五八)は刑法学者で、当時、早稲田大学教授。
 ここで江家は、三つの映画について語っている。残念ながら、最初のふたつのアメリカ映画は、どちらもタイトルが不明である。この月報が出された当時、編集者が映画関係者に問い合わせるなどの手数を惜しまなければ、タイトルの特定は難しくなかったであろう。
 三番目の「エノケンの鞍馬天狗」は、文字通り、『エノケンの鞍馬天狗』というタイトルの映画である。主演は、エノケンこと榎本健一、一九三九年(昭和一四)の東宝映画である(現在、この映画は、ユーチューブで公開されているが未見)。

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