◎言・事・誠は三つではなく一つ(松尾捨治郎)
松尾捨治郎『国語論叢』(井田書店、一九四三)から、「第二十八 活語余論後篇の所説について」を紹介している。本日は、その二回目。
昨日、紹介した部分のあと、次のように続く。文中の傍線、一字アキは原文のまま。
三巻を通じて、左の如く九十二項を含んで居る。
四巻 三十五項 五巻 二十九項 六巻 二十八項 之を其の内容から大体次の如く分類することが出来る。但し中には一項が二類乃至三類を兼ねた者もあるが、其の項の主眼と認められる点によつて分けたのである。
1 動詞に関する者 六項
2 副訶に関する者 十一項
3 助詞に関する者 十四項
4 字音と訓とに関する者 二十項
5 音声と仮名とに関する者 十六項
6 神儒仏に関する者 十項
7 大義名分に関する者 十五項
右の中45の多いのは、男信〈ナマシナ〉や於乎軽重義〈オオケイチョウギ〉の著者たる義門としては、怪むに足らない。活語余論といふ書名から推すと、動詞 形容詞 助動詞 等の活用に関する者が、もつと多くて然るべきやうに思はれるのに、甚だ少いのは案外の感じがする。尤も他の類の中にも用言の活用に言及した者が無いではない。さて其の国語学研究の動機については、江戸時代の一般国語学者が、詠歌又は釈歌を目的として居るのとは、全然違つて、常に
一、為妙辨語意故
二、為防止他謗故
三、為或関法義故
といふ事を言明して居るのであるから、6に関する者も、もつと多くあつてよい様に思はれる。しかし多数の人は、以上の事よりも、大義名分に関する者が十五項に及んで居るのを、特に意外と感ずるであらう。其の身は真宗〔浄土真宗〕の僧である。研究する所はことばの学問である。ことばと日本精神といふ者と、そんなに関係があるのは不思議であると考へる人もあらう。しかし此は甚しい謬見〈ビュウケン〉である。
我が国民は、武士道が尤もよく代表して居るやうに、非常に実行を重んずる。単に言【こと】と事【こと】(行)との一致だけではなく、此の誠【まこと】(精神)が合致することを大理想とした。言 事 誠 は三つではなく、一つなのである。我々の祖先は斯う考へた。それで我が国の語を研究して、其の真髄を得るに至れば、必ずや此の境地に到達する。少くとも此の境地にあこがれるやうになる。然るに世には之を悟らず、又「言語は君子の枢機なり」といふ教〈オシエ〉を忘れて、言葉を疎か〈オロソカ〉にする者が少くないのは、慨はしい至〈イタリ〉である。義門は仏者であり、且、其の国語学研究の動機から考へて、真宗の教義を明かにする熱意のあることは勿論であるが、一歩進んで 國體 大義名分 日本精神 に其の心を向けたのも偶然ではない。其の皇室を尊び重んじた俤〈オモカゲ〉は、他の書にも散見するが、此の後篇には特に其が多い。但し皇室を尊ぶと同時に、仏法を尊ぶやうになつて居る者があるのは、其の 教養 境遇 の然らしめる所、是亦当然であらう。〈三六〇~三六一ページ〉【以下、次回】
ここまでが、「一 序言」である。
文中で松尾は、「言語は君子の枢機なり」という言葉を引いているが、これは、易経にある「言行は君子の枢機なり」(言行君子之枢機)を言い換えたものであろう。