◎開闢以来のことで何が突発するか予測し難い
大佛次郎『終戦日記』(文春文庫、2007)を紹介している。本日は、八月十二日の日記。このあと、二十日までの日記を紹介する予定である。表記は、文春文庫版のとおり。
八月十二日 日曜
朝の内、前々日から書き続けている「白猫」の筆を取ろうとしていると津村君が彌生ちゃんを連れてやって来る。麻布随筆、冬の蝿その他を貸す。思いのほか読んでいないらしい。津村君帰り仕事にかかろうとすると松浦良松が伊那谷から出て来る。毎日をやめたという。久振りで出て来て世間が大したことになっているので驚いたという。伊那の松島にもと料理やだった家に間借りしているのだが百姓が物をやらぬと野菜も米も売ってくれぬ。それに疎開人と百姓の間に立つブローカーが出来ていて(もと小商人〈コアキンド〉)悪くなるばかりである。都会人だとあるところまで行くと気持が通じるが百姓には全然そういう性質がなく慾で突張る。元来物々交換の如き取引だったところへ都会人の金にたよる経済が入って来たので混乱し、疎開の人はやたらに金を出すので土地の者に迷惑だという非難が起っている。蜂蜜一升が三百五十円である。二升買うのに現金二百円に地下足袋と手拭地一反に古着類をつけてやると云った状態である。百姓の慾しがるのは第一に塩(塩一升に対し米二升くれる、)地下足袋、はんてんの類の作業着、硫安。食用油は田舎になく慾しがっているが、東京で百八十円から二百円すると云っても決して本統と信じないからそれだけの米も麦も出してくれない。砂糖はないし欲しがらぬ。酒は火をとおしてない腐敗し易いものだが、もと三十円のが八十円から百円に近づいて来た。義勇隊などはきびしく隊長が自分の云うことは天皇陛下の仰有る〈オッシャル〉ことと聞き反対は許さぬと云うそうである。朝鮮の義勇兵が入っているが脱走が多く道筋に平服で憲兵が見張っている。脱走の原因は食事の不足である。上方あたりの部隊で芋畑ばかり作っているのがある。これが米や野菜を強制的に村から供出させて生活し芋を作っているのである。矛盾を極めた話だし土地の迷惑である。国民義勇隊は山地に焼畑〈ヤキハタ〉を作り蕎麦など蒔くのである。松浦君帰り一睡り〈ヒトネムリ〉して原稿を書いていると今日出海〈コン・ヒデミ〉がブウちゃんと云う日大哲学出の男を連れて来る。この男が夕食の天ぷらをしてくれ小暮君の持って来た酒を飲み時局を憂いつつお互いにしっかりやろうという話。軍隊の暴動が起らぬかという不安、武装解除など如何なる形で行わるるにや、開闢〈カイビャク〉以来のことだし他に及ぼす迷惑を考えぬ血気の徒が多いことで何が突発するか予測し難いのである。食料の欠乏、必然のインフレエションのことなど前途は困難のみである。ただそれにしても今日までの希望のまったくない月日とはやや異ったものが生れつつある。門田君から電話、男の子が安産の由、これにはほっとした。今ちゃん酔って終電におくれ、また提灯をつけて歩いて帰って行く。酒を飲んでいる時だけ慰められているようなものである。不健康の感じがとれぬ。
○重臣会議で東郷〔茂徳〕外相が最も強硬で陸軍がいろいろ条件を出して来たのをこんなものは今更容れられるわけがないとはねつけたという。敵は近衛〔文麿〕を交渉相手に指名して来ているという。もろい性格に決して充分な期待は持てぬ、いやな小姑〈コジュウト〉に苦しめられることであろう。