礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

真実は新聞にもラジオにも現れず(1945・8・16)

2024-07-27 00:50:37 | コラムと名言

◎真実は新聞にもラジオにも現れず(1945・8・16)

 大佛次郎『終戦日記』(文春文庫、2007)を紹介している。本日は、八月十六日の日記を紹介する。この日記は長いので、二回に分けて紹介する。表記は、文春文庫版のとおり。

 八月十六日
 晴。依然敵数機入り来たり高射砲鳴る。小川真吉が小林秀雄と前後し訪ね来たる。昨日の渋谷駅などプラットフォームの人が新聞をひらいてしんとせしものなりしと。小林も涙が出て困ったと話す。意外のことに啞然とせしは全般だったようである。篠崎が来て材木座に海軍機が来て海軍航空隊司令の名で大詔は重臣の強要せしものにて海軍航空隊は降服せずあくまでたたかう旨のビラを撒きしと。東京市内はひっそりしていると云うが不穏のもの動きいるなり。午後、朝日伴、田島来たる。社では一堂に会し大詔を聞き泣く者多かりしと。朝日は玄関の大戸を閉めているそうである。亀田氏が東京の帰りに寄り、鈴木〔貫太郎〕首相の家が憲兵に焼かれたと伝える。なお参謀本部で割腹する者続出すと云う由なれど真相は知り難し。朝鮮人の乱暴食料奪取の危機などに人は怯えいるらし。夜おそく村田来たり医者が診察に来ての話に、米軍は明日あたり上陸(それも鎌倉に)するらしく女子供を避難させる要ありと話して帰りたるがと意見を問われる。工場に来ている巡査もデマがとめどもなく飛び処置なしと語りし由。岸君来たり木戸内相と平沼〔騏一郎〕の居宅軍人に放火せられ、近衛の〔森赳〕師団長は参謀に斬られた旨知らせてくれる。〔後記 射殺。参謀本部付の佐官級の者が近衛師団を動かし宮城を抑えんとせしにて、殺害後偽の師団命令を発し計画どおりに出でたるも、田中〔静壱〕大将に鎮撫せられ首謀者数名は自殺す。〕鈴木貫太郎の家の話は聞いていないと云う。亀田氏は会社に来ている者が見て来た話だと云うのである。人心の動揺している様がわかる。市中は平静、靖国神社の前に立ちて泣きいる学徒が多いと云う。悲痛のことである。依然として真実は新聞にもラジオにも現れず、東京で撒かれしビラには軍隊を失いて天皇の大権なしとし、重臣の攻撃と特攻機はなおあり原子爆弾はさして効果ないと云う条項を書きつらねしものもありしと。これは海軍以外から出たものらしい。ビラはともに紙質粗悪で乱暴に書いたガリ版だそうである。別に千葉の部隊が不穏と云う話もある。どれも多少は真実であろう。ショックの為昂奮しているのだ。つたゑ母子、卵を持ち来たる。戦車が連続して通る為にバス動かず三時間立って待ったと。どの方角へ行ったと聞くと逗子〈ズシ〉の方へ出て行くのだったと。また海軍機工学校の校長が室を閉じて姿を見せず自殺したものと中将少将などの偉い人が泣いていたと話す。各地とも冷静さを失っているのである。しかし一般は反戦的な底流がまぎらし切れぬ。現実の問題として軍の戦力を最早国民は信用していない。事があったとしても小暴動で、続くわけがない。ただ外地、特に支那大陸の状況が危まれる。しかしこれは現地補給の方針だった食料が続かぬ状態にあるので何が出来ようか。南方のことは全く不明。鈴木内閣の辞職に次ぎ東久邇宮〈ヒガシクニノミヤ〉に大命降下と三時放送、岸君の話では緒方〔竹虎〕氏が翰長【かんちよう】、事実上は緒方内閣ならんと。緒方氏は近来非常に積極的な気風になっており、宮はまたミョウヒン(繆斌)事件来乗り出す希望を持っておられたと云う。ラジオはこの際妄動して世界に信義を失ってはならぬと毎時繰返している。大宮あたりの工場は行員の解雇を初めたと云う。国民義勇隊を陣地構築に動員することも廃止、女子学徒の徴用もやめ、朝日新聞では女たちのやめたい者をやめさせる方針だと。男子行員も帰りたがっている。作業は停止されている。田島宅へ来た少年工員は電熱器が欲しければ幾らでも持って来てあげます(工場から)どうせ米軍が来たら取られるのだからと話していたそうである。徴用解除には社長の承認と警視庁の許可が要るのだがその手続も無視されている。東京でも横浜でも米の特配があった。これも米軍に渡る前に分散し各戸に保有させるのだと云う説。【以下、次回】

 文中、木戸内相とあるのは原文のまま。当時、木戸幸一は、内相(内務大臣)ではなく、内府(内大臣)である。

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