礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ソビエト映画『イワン雷帝』とウクライナ戦争

2023-01-10 00:00:47 | コラムと名言

◎ソビエト映画『イワン雷帝』とウクライナ戦争

 昨年の三月一四日のブログに私は、「この戦争下で観るべき映画」という記事を寄せた。そこでは、「ウクライナ戦争」の下で、私たちが観るべき映画として、『博士の異常な愛情』(コロンビア、一九六四)、『インナー・サークル 映写技師は見ていた』(コロンビア、一九九一)、『ヒトラー~最期の12日間~』(ドイツ、二〇〇四)の三本を挙げた。
 数日前、私は、エイゼンシュテイン監督のソビエト映画『イワン雷帝』(一九四四~一九四六)を鑑賞した。そして、この映画こそ、この戦争下において、まっ先に観るべき映画であろうと思った。
 なぜか。それは、この映画が、ロシアという国家とその国民が抱いている集合意識(被害者意識を含む)を巧みに表現しているからである。 

     *    *    *

 イワン雷帝(イワン四世、一五三〇~一五八四)は、第一部の中で、次のように語っている。
「狡猾な近隣諸国がモスクワの繁栄に反発して、わが国の商業を妨害するなど絶対に許さぬ。」
 また、第一部のラストでは、次のように叫んでいる。
「ローマは二度滅びた。第三のローマ=モスクワは不滅だ。そして第四のローマはあり得ぬ。……馬を用意せよ。モスクワへ帰る。偉大なる大ロシア帝国のために。」
 ロシア帝国は、「第三のローマ帝国」として、世界に君臨しなければならないという強大な自負である。
 第二部の冒頭では、ポーランド国王・シギスムント(ジクムント二世アウグストのことか)が、貴族らを前に、長い演説をおこなっている。これは、西欧の対ロシア観を余すところなく示すものになっている。
「神の御意でポーランドやリヴォニアはヨーロッパの防波堤と定められている。モスクワの者どもは、西欧の文化的諸民族の一員とは認められない。
 ロシアの大地は豊饒だ。家畜は肥え、地下資源も豊富だ。ロシア人は農民でいればよい。
 だのにモスクワの玉座にいる男が、ヨーロッパの君主たちの夢を脅かすのだ。
 我々はモスクワを西欧諸国に服従させる。ロシア人をヨーロッパからアジアへと放逐しよう。」

     *    *    *

 ロシアは、みずからを世界に君臨すべき帝国として位置づけている。その一方で西欧は、ロシアを、西欧に服従すべきアジアの後進国として位置づけている。容易ならざる「ギャップ」である。もちろん、ロシアは、そのギャップに気づき、苦しむのである。
 ロシアという国における、こうしたギャップは、二十一世紀の今日においても解消していない。今回のウクライナ戦争を引き起こしたものは、究極的には、こうした「ギャップ」ではなかったのか。
 これより先、私は、小泉悠氏の『ウクライナ戦争』(中公新書、二〇二二年一二月)を買って読んだ。たいへん勉強になった。この本は、ウクライナ戦争について学ぼうとする者にとっては、「必読書」であろう。しかし、この本は、「軍事的側面」の話が中心であって、この戦争における「歴史的側面」を教えてくれる本ではない。この戦争の「本質」を示唆している本というわけでもない。私は、この本を三日かけて読んだが、そのインパクトは、三時間かけて観た『イワン雷帝』のインパクトに、遠く及ばなかった。
 映画『イワン雷帝』を私は、IVC(株式会社アイ・ヴィー・シー)のDVDで鑑賞した。第1部と第2部を収めて、計184分。定価は1800円。ただし今日、この映画は、「ニコニコ動画」というもので鑑賞できるらしい。

*このブログの人気記事 2023・1・10

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昭和天皇と乃木大将

2023-01-09 00:06:48 | コラムと名言

◎昭和天皇と乃木大将

『特集文藝春秋 天皇白書』(一九五六年九月)から、鈴木たかの回想記「天皇・運命の誕生」を紹介している。本日は、その三回目(最後)。昨日、紹介した部分のあと、次のように続く。

   鬼ごつこされる大正天皇【略】

   今も生きてる乃木大将
 乃木〔希典〕さんの話では、あの時分のことで、相撲をとつたりされて御洋服の膝や靴下に穴があくんですが、それをいちいち取替えていたんです。所が、ある日、お帰りになつて、「院長閣下が着物の穴の開いてるのを着ちやいけないが、つぎの当つたのを着るのはちつとも恥じやない、とおつしやるから、穴の開いてるのにつぎを当てろ」とおつしやられて、私どもは穴のあいてる御洋服や靴下につぎを当てました。メルトン〔melton〕の御洋服ですからすぐ穴があきましてね。つぎを当てますと、「これでいいんだ、院長閣下がおつしやつたんだからこれでいいんだ」とおつしやつていました。何時だつたか乃木さんが御機嫌伺いにお上がりになつた時、「今日乃木大将が拝謁でございます」と申し上げますと、「いや、違う」「どういたしました?」「それは乃木大将じやいけない、院長閣下と申し上げなきやいけない」とおつしやる。それから乃木さんがおいでになると院長閣下と申し上げたものです。そのくらい尊敬を持つておいでになりました。
 一度なんか、熱海に御避寒遊ばしていらつしやつた時のことですが、元日雪がたくさん降つた朝、乃木さんがやはり御機嫌伺いにおいでになられました。その時分は汽車がございませんので、沼津から軽井沢という所へ前の晩にお泊りになつて、朝早く熟海に御機嫌伺いにおいでになる訳です。ちようど殿下は火鉢(御所の火鉢は大きな火鉢で、上に金網がかかつたものですが)に当つていらつしやつたのです。「殿下、お寒いんでございますか。お寒いいは火鉢に当るよりあの御運動場に行つて駈けだしていらつしやつたらいかがですか。御運動場を二、三回お周りになつたら暖かくなります」とおつしやられますと、早速、火鉢に当るのをお止めになりました。又、殿下は熱海の山でお学友とよくお遊びになつたんですが、乃木さんが「殿下、山へお登りになる時に駈けてお登りになりますか、それとも下りる時に駈けてお下りになりますか」と伺われました。「登る時には駈けて登れないけれども、下りる時は駈けて下ります」「それはいけません、殿下。お登りになる時にはいくら駈けて登つてもお怪我はないが、下りる時に駈けて下りられると、お怪我を遊ばします。下りる時はゆつくり下りられた方がよろしい。お登りになる時はいくら駈けてお登りになつても結構」と、そういう小さな御注意を、ちよつちよつと遊ばされました。
 このような乃木さんのお話で想い出されるのは三、四年前のことでございますが、ふだん陛下のお召遊ばす外套の襟が破れたことを女官長が陛下に申し上げますと、「外へ出る時は別だが、ふだんうちで往き来する時の外套はつぎを当てておけばいいから」と仰せられ、つぎを当てた外套を差し上げて恐縮しました――と女官長が言つておられましたが、私どもはそれを伺つた時に、あゝ、乃木さんが一生懸命御教育遊ばしたことは今でも陛下の中に生きていらつしやるんだな、と思いました。
 乃木さんが自決遊ばしたのは〔一九一二年〕九月十三日ですから、たしか十一日だつたと思いますが、「三殿下に拝謁したい」と申されましてお見えになられました。私どもはおいりかわ〔お入側〕の障子の外にいまして、はつきりお言葉を伺わなかつたんですが、「きようはまず迪宮殿下に申し上げます」と言つて、懇々と何か申しておられました。『中朝事実』の白文に朱を入れたのを差し上げて、「今に御成長になつたらこれをよくお読みになつて頂きたい」と。残念ながら少し離れていましたから申し上げたことがはつきり私どもには聞こえませんでしたけれども、あんまり諄々と申し上げになるもんですから迪宮さまが「院長閣下はどつかへ行かれるのか」とお訊きになられますと、「いやあ、私は只今おじじさまの御大葬について外国使臣の接伴〈セッパン〉を言いつかつています。それがために殿下に拝謁ができないと思いますから、きよう伺つて申し上げました」と答えておられるのです。それだけははつきり聞こえたんです。乃木さんは最後のお別れに出られたわけですが聡明な殿下はお気がおつき遊ばされたんでしよう。「院長閣下はどつかへ行かれるのか」つて。お年は十二でいらつしやいました。
 それから御大葬の日、乃木さん夫婦が自殺したつていうのが聞こえて来ましたのです。ああ、それであんなにしみじみと申し上げていらしつたんだな、つていうことを私どもなどはあとで感じました次第でございます。乃木さんが差し上げた『中朝事実』を、鈴木〔貫太郎〕が侍従長になつてから、どつかにあるだろうというので方々を探したんでございますが、どうしても見つかりませんでした。
 今あれが残つていますと大変いい紀念品におなりになると思いますが、残念なことでございました。

   色が黒かつた陛下【略】

 鈴木たかの回想記は、ここまでである。
 文中、「沼津から軽井沢という所へ前の晩にお泊りになつて」とあるが、この軽井沢というのは、沼津の島郷(とうごう)海岸のことであろう。島郷海岸は風光明媚で、「海の軽井沢」と呼ばれていたという。ちなみに、当時の東海道線は、国府津から御殿場経由で沼津に至っており、熱海には鉄道がなかった。
 鈴木たかの回想記に続いて、同じく『特集文藝春秋 天皇白書』から、鈴木貫太郎の回想記を紹介したいと考えているが、明日はいったん、話題を変える。

今日の名言 2023・1・9

◎下りる時はゆつくり下りられた方がよろしい

 少年時代の昭和天皇に乃木希典が与えた注意。「下りる時はゆつくり下りられた方がよろしい。お登りになる時はいくら駈けてお登りになつても結構」。上記コラム参照。

*このブログの人気記事 2023・1・9(9位に珍しいものが入っています)

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昭和天皇と七元老

2023-01-08 03:04:09 | コラムと名言

◎昭和天皇と七元老

『特集文藝春秋 天皇白書』(一九五六年九月)から、鈴木たかの回想記「天皇・運命の誕生」を紹介している。本日は、その二回目。昨日、紹介した部分のあと、次のように続く。

   感泣した明治の元勲
 暫くたつて日露戦争も済み論功行賞がございまして、私ども両殿下のお供で御所へ出ていましたら、「きようはおじじさまお忙しいから皇后さまの方へ先へ伺うように」ということで、お人形の間へ参りました。皇后さまに拝謁になるんで、人形の間で遊んでいたら、そこへぞろぞろつと七元老(伊藤博文山縣有朋松方正義井上馨さんなど)がみんな金ピカの盛装に勲章をつけて入つていらつしやいました。あんまり立派な様子で出てこられたものですからちよつと私どもびつくりしまして、向うの方へ参ろうかと思つていましたが、秩父宮様と高松宮さんはすぐ向うの方へ行つておしまいになりました。ところがお上〔昭和天皇〕だけはちよつと立ち止つてごらんになつておられました。 
 すると伊藤さんが側〈ソバ〉に来られて、「皇孫殿下にいらつしやいますか」といわれました。「さようです。」そこでごあいさつを遊ばしたんですよ。殿下は「誰か?」つてお尋ねになられました。
「私は伊藤でございます。きようはおじじさまから結構な頂戴物をいたしましたので御礼に参りました」。「そこにいるの誰か」つておつしやるので、つぎつぎに山縣元帥からずつと七元老の名前を伊藤さんが申し上げたんです。
 殿下は「そうか」つておつしやつていちいちごらんになつておいでになりました。みんな大きな方の中に水兵服を召した小さな殿下なのに、やつばりプリンスとしての態度がご立派なものですから伊藤さんが非常に喜ばれまして、「ああ、きようは良い折にお目にかかりました」と喜んで、「あとのお二方様もどうぞこちらへいらしつて頂きとうございます」といわれたので、それからお二方をお連れしまして、七元老がごあいさつなさいました。
 ちようど皇后さまに御拝謁までちよつと間がありましたので、迪宮〈ミチノミヤ〉さまが「勲章がたくさんあるが、きようはどれを頂いたのか」とおつしやる。
伊藤さんが「これを頂きました。まことに有難いことで」と申されますと、「そのほかに着いてる勲章は何か」つてお尋ねになる。たくさん着いておりましたのですよ。「これは外国の勲章でございます」とかいちいち申し上げまして、山縣さんなどはびつくりしていらつしやるんです。
 やつぱり将来のおありになるお方は違うと思われたのでございましよう。私どももお側で拝見していて涙がこぼれるようでございました。それがまだお六つぐらいの時ですからちよつと普通の子供ではおどおどしていて出来ませんが、既にお生まれ遊ばした時から王者の御風格が備わつていたんでございましよう。【以下、次回】

 最初のほうに、「両殿下のお供で」とあるのが、あとの記述からすると、「三殿下のお供で」とあるべきところであった。
 また、「七元老」とあるのは、伊藤博文・山県有朋・松方正義・井上馨・大山巌・桂太郎・西園寺公望の七人を指しているのであろう。この七人に、黒田清隆(くろだ・きよたか、一八四〇~一九〇〇)、西郷従道(さいごう・つぐみち、一八四三~一九〇二)を加えた九人を「九元老」と呼んだことがある。このうち、黒田清隆と西郷従道は、いずれも日露戦争前に物故している。

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昭和天皇と鈴木たか

2023-01-07 04:03:39 | コラムと名言

◎昭和天皇と鈴木たか

 昨日は、『特集文藝春秋 天皇白書』(一九五六年九月)から、正宗白鳥の「天皇制下・三代に生く」という文章を紹介した。
『特集文藝春秋 天皇白書』は、三十年以上前に入手した本だが、今回、読み直してみて、改めて貴重な史料だと思った。鈴木貫太郎(一八六八~一九四八)の回想記と、その妻・鈴木たか(一八八三~一九七一)の回想記が、併載されているのも珍しい。
 本日は、鈴木たかの回想記「天皇・運命の誕生」から、その一部を紹介してみたい。ここで「天皇」とは、もちろん、昭和天皇のことである。鈴木たかは、幼少時の昭和天皇の教育係を務めたことがあった。なお、鈴木たかは、この回想記では「鈴木孝」と署名している。

  天 皇・運 命 の 誕 生    鈴 木 孝【すずき たか】

 明治大帝の皇孫として誕生した今上陛下迪宮に女官として幼年期から十五
 まで十一年間仕えた鈴木貫太郎未亡人が宮中秘録を始めて発表す!

   明治大帝と陛下【略】
   肺炎と据風呂 【略】
   日露戦争と陛下【略】

   幼稚園時代の天皇と皇后
 ちようどそのころ華族女学校の幼稚園がございまして、あそこに野口幽香子さんという先生がおいでになりました。この方が幼稚園の方の主任でございまして、よく幼稚園へお遊びにおいでになつたんでございます。その幼稚園に今の皇后さま〔淳香皇后〕と皇后さまのお妹御〈オイモウトゴ〉さま〔久邇宮信子女王〕がおいでになりまして、お昼食を頂く時は、こちら側には迪宮〈ミチノミヤ〉さま〔昭和天皇〕と淳宮〈アツノミヤ〉さま〔秩父宮雍仁親王〕、あちら側には今の皇后さまとお妹御さま、というように並んで弁当を召し上がる。お上〔昭和天皇〕の方はニコニコ笑つてごらんになりますが、淳宮さまの方はちよつと行つておいたをされる。お二方はニコリニコリ遊ばしておいでになりましたがその時分幽香さんが「このお二方は将来御縁組でも出来そうに思える」ということを言つておいでになりました。まだ幼稚園にいらしつた時ですから、われわれはそんなことがあるかしらんと思いましたが、のちになると皇后さまにおなりになりまして、お幽香さんあたりには一種の霊感があつたんでございましよう。
 これはそれより後のお話ですが、秩父さんが長い間お上と御一緒においでになつて後、秩父宮御殿へお移りになつた時に、引越しソバ券をお上にお見せになられて、「これわかりますか」とおつしやられた。お上がおわかりにならないので秩父さんはとても御得意になられました。私どもの社会では兄貴をやつつけたということになるわけなのでしよう。高松さん〔高松宮宣仁親王〕は別の御殿におやすみになりましたが、お上と秩父さんは一つ部屋に一緒におやすみになり、ずつと御一緒でした。そのくせおけんか〔お喧嘩〕つていうことを遊ばしたことはございませんでしたね。
 たいがい一つ違いのお子さん同士ですとけんかをするものですが、よくあんなに仲良く遊ばしておいでになると思うくらいでございました。お上が東宮さま〔皇太子〕になつてお別れになるまで御一緒でしたので一番お親しゆうございましたがら、それだけに秩父さんがお亡くなり遊ばした時はお上はお力を落されました。秩父さんは病気で寝ていらつしやつても、外国の本を読んでいらつしやつて、何かの時に、こういうこともあると、外交上のことについてもいちいちお話をなさつていられたようです。
 御一緒に居られた頃、お上は迪宮ですから「みちのみや」を一緒にして御自分のことを「みちま、みちま」とおつしやつて、秩父さんは「おにいさま、おにいさま」とおつしやつていました。秩父さんは御自分のことを「あつのみや」ですから「あつや、あつや」とおつしやつていました。【以下、次回】

「引越しソバ券」は、今日、完全に死語である。かつて、引越しの挨拶に、近隣の家に蕎麦を配る風習があったという。蕎麦を配る代りに、蕎麦屋が発行した「ソバ引き換え券」を渡した時期もあった(これで、出前が頼める)。この券を、「ソバ券」あるいは「引越しソバ券」と呼んだ。

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内村鑑三と正宗白鳥

2023-01-06 02:39:16 | コラムと名言

◎内村鑑三と正宗白鳥

 作家の正宗白鳥(一八七九~一九六二)は、植村正久(一八五八~一九二五)と内村鑑三(一八六一~一九三〇)といったキリスト教指導者から、大きな影響を受けた。臨終の際には、植村正久の娘である植村環牧師(一八九〇~一九八二)に葬儀を依頼したという。
 その正宗白鳥が、内村鑑三不敬事件について触れている文章を見つけたので、本日は、これを紹介してみたい。『特集文藝春秋 天皇白書』(一九五六年九月)の冒頭にある「天皇制下・三代に生く」と題された文章で、「憲法発布と教育勅語」、「薩長の企てた天皇尊崇思想」、「内村鑑三の不敬事件」、「文壇人の忠君愛国観」の各節からなっている。ここでは、「内村鑑三の不敬事件」の節を紹介する。

   内村鑑三の不敬事件
 ところで、教育勅語で問題を起したのは、内村鑑三である。針小棒大に伝えられているが、私などには回顧的興味が豊かなのだ。アメリカ帰りの内村は、あちらこちらの基督教主義の学校の教師として糊口の資を得ていたのだが、狷介〈ケンカイ〉な彼はどこででも、経営者と衝突して、ようやく第一高等学校の教師として、安固な地位に有りついたばかりのところであつた。受持ち課目は西洋歴史であつたらしい。或日帝大総長の濱尾新〈ハマオ・アラタ〉が、教師の教授振りを参観に来た時、「どういう方法で歴史を教えているか」と訊くと、内村は直ちに「クリスチャン・メソッド」と答えたので、濱尾は啞然としたということだ。
 さて、この高等学校でも、教育勅語捧戴式があつた。教師が一人ずつ、その前で恭しく礼拝するのであつたが、内村は礼拝しないで素通りした。これが不敬事件の正体なのである。威儀を正した衆人環視のうちの異例な行動だから、森有礼の曖昧模糊の不敬事件とは異つている。問題になるのは当然である。直後の権威冒瀆である。ところが、一高の学生までが内村の不敬を憤つて、その住宅の窓へ石を投付けたりしたそうだ。内村の西洋歴史教授は無論面白かつたに違いないので、青年学生も敬意を寄せていたのであろうが、それにも関わらず、国家主義を無視するような彼の行動は許し難かつたのであろう。マルキシズム輸入以後であつたら、青年学徒は、反逆的傾向の教師に味方したであろうのに、当時はさすがの一高の学風も古くさかつたのか。
 内村は、世上の非難囂々〈ゴウゴウ〉のうちに腸チブスに掛つたり貞淑の細君は看病疲れと貧乏のために病死したりした。信念のための悲劇人と見做してもいゝ。殉教者としてもいゝ訳であるが、必しも徹底したとは云い難いので、そこに人間性の発露の見られるのに、私は同感するのである。内村は後日学校と妥協して、知友が彼に代つて、勅語礼拝をしたのであつた。内村自身は、教育勅語は形式的礼拝よりも、勅語の教えを守るところに意味があるのであると自己弁護している。世人は型の如き礼拝はするが、実際には勅語の教えに背いた行為をしているではないか。この方が不忠であると云つたりしている。
 内村不敬事件にちなみて、井上哲次郎は、「教育と宗教の衝突」と題して、キリスト教の所説が教育勅語の教えに相違しているのをこまかに指摘して、或教育雑誌に連載した。井上は、曲学阿世の学者として有名であつた。当時の権威に媚びて、キリスト教をこきおろして弱いものいじめをやつたのだ。キリスト教徒は、戦々兢々として自己弁護に努めた。高橋五郎という雑学者は、キリスト教に同情のある徳富蘇峰主宰の雑誌「国民之友」に於て、「偽哲学者の曲論」として、何回も続けて、井上説を反駁した。井上も衒学を極め、独逸の哲学者と懇意であつたことなどを吹聴していたが、高橋もギリシア、ラテンからはじめ、欧洲各国の文献を例證し、衒学的筆法を恣まゝ〈ホシイママ〉にしていた。年少にして「国民之友」愛読者であつた私は、高橋の論文をも熟読して、よくは分らなかつたが、たゞ聖書の教えは教育勅語に少しも違反していないと云うことだけは薄々分つた。
 ところが、私は成長して、聖書を読み、哲学文学或は西洋史の書籍をも手あたり次第に読むに連れて、曲学阿世の綽名〈アダナ〉を持つている井上哲次郎の所説が必しも不当ではないと思うようになつた。高橋説こそ却つて故事つけではないか。教育勅語と聖書とが衝突しないというのこそ可笑しい。聖書と教育勅語と背丈〈セイタケ〉くらべをさせようというのか。純真のキリスト教徒が血涙をそゝいで読んで、心魂を養う聖書からの印象が私などが小学校時代に、小学校教師の教育勅語講釈からから受けた印象と同様なのであろうか。聖書を排斥するしないは別として、この書物の説くところは、一時の思い付〈オモイツキ〉ではない筈である。聖書もキリスト教も、世界のいろいろな物と衝突している筈である。キリスト教徒の立場から云うと、衝突しているところに永遠の真価がある筈である。教育勅語が、内村が濱尾に向つて云つたような「クリスチャン・メソッド」で起草されていないことは明らかである。
 キリスト教は苟烈な宗教で、信者に殉教を強いるような趣きがあるが、内村は敢てしなかつた。しかし、後日、私が早稲田に学んでいた自分、内村の文学講演を神田の青年会館に聴きに行つた時の記憶によると、カーライルか何かの講演の間に、内村は、「自分は本郷の古本屋でカーライルの『クロンウェル伝』を一円で買つた。それを読んで、王侯権威に屈しまいと覚悟した」と呟いて苦笑した。それから、ホイットマン、ローエル、ブライアンなどアメリカの詩人の詩の雄大な事を説き、「アメリカは頭に帽子を載せていないからいゝ。それで詩も雄大である」なんて云つて、笑いを洩らした。聴講者は僅か数十人で、世間に公けにされないですんだが、こういう余語を耳を留めたのは私一人であつたのであろう。〈三〇~三一ページ〉

 正宗白鳥にとって内村鑑三は「師」ともいうべき存在だが、その内村に対して正宗は、「狷介な彼はどこででも、経営者と衝突して」云々という辛辣な言葉を放っている。正宗もまた、狷介な人物だったようである。
「高橋五郎という雑学者」が出てくる。高橋五郎については、詳しく調べていないが、カーライル『仏国革命史』などの翻訳書があるようだ(一八五六~一九三五)。

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