礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

鈴木閣下は聞くと見るとは大違いだ(安藤輝三)

2023-01-15 00:45:19 | コラムと名言

◎鈴木閣下は聞くと見るとは大違いだ(安藤輝三)

『特集文藝春秋 天皇白書』(一九五六年九月)から、鈴木貫太郎の回想記「嵐の侍従長八年」を紹介している。本日は、その五回目。昨日、紹介した「二・二六事件」の節のあと、次のように続く。

  思想の犠牲 安藤大尉
 この指揮者の安藤〔輝三〕大尉が二年前民間の友人と三人で訪ねて來たことはあつた。その時、安藤君は陸軍の青年将校の一部に提唱されていた所謂革新政策に就いていろいろ述べて私の意見を尋ねたのである。私はその意見の中〈ウチ〉三点を挙げて非常に間違つている事を述べて反駁した。第一に軍人が政治に進出し政権を壟断する事、これは第一明治天皇の御勅諭に反するものである。元々軍備は国家の防衛のため国民の膏血を絞つて備えているもので、これを国内の政治に使用するということは間違つでいる。政治上の事ならば警察があるからそれで沢山である。軍人が政治を壟断〈ロウダン〉するのはそもそも亡国の兆〈キザシ〉である。兵は陛下のものである。もし軍人が政治を論ずることが許されるなら、政治は甲、乙、丙、丁違つた意見を持つもので、それを論議して中庸に落着くことが政治の要諦である。もし武力をもつて論議することになれば、直ちに武力を政治に使うようになり、これは元亀天正の戦国時代と同じようになりはしないか。常備軍がこんなことに力を用いるようになるとしたら、外国と戦争する時、どれだけの兵力を用いられるか、甚だ危険な状態になるのではないか。そういうことから明治十五年〔一八八二〕の御勅諭〔陸海軍軍人に賜はりたる勅諭〕に軍人は政治に関与すべからざることと、お示しになつたと、こう考えられるのである。何にしても軍人が政治を壟断するというようなことは国家のため非常な罪悪となることだから謹しまねばならぬ。
 第二に貴君は総理大臣は政治的に純真無垢な荒木貞夫大将でなければいかんと云われるが、一人の人を何処までもその人でなければいかんと主張することは、天皇の大権を拘束することになりはしないか。日本国民としてこういうことは云えない筈だ。もしこれこれ数人の中からと云えば、陛下の御選択の余地がある。一人の人を指定することは強要することで、天皇の大権を無視することになる。これが貴君達の云い分のうちの第二の不当なところである。
 第三は、今陸軍の兵は多く農村から出ているが、農村が疲弊しておつて後顧〈コウコ〉の憂いがある。この後顧の憂いのある兵を以て外国と戦うことは薄弱と思う。それだから農村改革を軍隊の手でやつて、後顧の憂いなくして外敵に対抗しなければならんと云うわれるが、これは一応尤ものように聞える。併し外国の歴史はそれと反対の事実を語つている。いやしくも国家が外国と戦争する場合後顧の憂いがあるから戦〈イクサ〉が出来ないというような弱い意志の国民ならその国は滅びても仕方があるまい。フランスの例をひいてフランスの帝制が倒れ共和制になつた時、他の国はそれが伝染しては困るという訳で、フランスの内政に干渉し軍隊を差向けた。フランス国民は、その時どうしたかと云えば、たとえ政体はどうでも祖国を救わなければならないと敵愾心〈テキガイシン〉を振い起し、常備兵はもとより義勇軍まで加わつて国境の警備に就いて非常に強く勇敢に戦つた。その時のフランス兵の一人一人に就いて考えて見ると、自分の親兄弟は政治上の内訌〈ナイコウ〉からギロチンで死んでいる者もあり、又妻子が饑餓に瀕している者もあつた。ナポレオンが太つているのを見て、お前は太つているから私に食を与えよと強要した婦人もあつたくらいで、フランスの国境軍は熱烈に戦闘した。それが祖国に対しての国民の意気であつた。そして遂にナポレオンのような英雄が出てフランス国民を率いあれだけの鴻業を立てた。これはフランス歴史の誇りとしているところである。
 しかし日本の国民は外国と戦うのに後顧の憂いがあつて戦えない国民だろうか。私はそうは思わない。フランス人ぐらいのことが日本人に出来ない筈はない。その證拠に日清、日露戦役当時の日本人を見給え。親兄弟が病床にあつても又妻子が饑餓に瀕していても、御国のために征くのだから御国のために身を捧げて心残りなく奮聞して貰いたいと激励している。これが外国と戦う時の国民の敵愾心である。然るにその後顧の憂いがあるから戦争に負けるなどと云うのは飛んでもない間違つた議論である。私は全然不同意である。
 こんなように云つたら安藤君は今日はまことに有難いお話を伺つて胸がさつばりしました、よく判りましたから友人にも説き聞かせますと云つて喜んで帰つた。そして帰る途次友人に、どうも鈴木閣下は聞くと見るとは大違いだ、あの方は西郷隆盛にそつくりだ。これから友人の下宿に立寄つて皆にこの話をしてやろうと云つていたそうだ。私は少し強すぎると思う言葉さえ使つて、三十分と申込まれた面接時間を三時間も割いて昼食まで一緒にして語つた甲斐があつたと思つた。その後数日経つて安藤君から重ねて座右の銘にしたいからと云つて私の書を希望して来たので書いてやつたことがある。
 安藤君は確かにその時は私の意見に同意した。併し同志を説破するに至らず、却つて安藤君は意志が動揺したと評判された。首領になつていたから抜き差しならない立場に追い込まれてあんなことに至つたが、事後自決の決心もしたのだろうと思う。真に惜しいと云うよりむしろ可愛い青年将校であつた。間違つた思想の犧牲になつたと思うと気の毒千万である。【以下、次回】

 鈴木貫太郎は、安藤輝三大尉を相手に三時間にわたって議論し、安藤大尉は鈴木の意見に「同意した」という。鈴木は、「一介の武弁」を自任していたというが、実際は、教養があり弁も立つ軍人だったのではないか。

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鈴木たか「とどめはどうかやめて頂きたい」

2023-01-14 02:13:28 | コラムと名言

◎鈴木たか「とどめはどうかやめて頂きたい」

『特集文藝春秋 天皇白書』(一九五六年九月)から、鈴木貫太郎の回想記「嵐の侍従長八年」を紹介している。本日は、その四回目。昨日、紹介した「紊乱する政治の大網」の節のあとにある「二・二六事件」の節を紹介する。
 なお、この「二・二六事件」の節は、かつて、当ブログのコラム〝鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」〟で紹介したことがある(2016・2・25)。それと重複するが、再度、紹介しておく。

  二・二六事件
 二月二十五日にアメリカ大使のグルー君から齋藤〔實〕内大臣夫妻、それから私達夫婦と松田元大使、榎本海軍参事官が晩餐の招待を受け、食後映画の催しがあつて十一時頃帰宅した。その晩は大変に歓待を受けたのだが、電灯のせいか何となく暗く陰気な感じを受けた。
 二十六日の朝四時頃、熟睡中の私を女中が起して、「今兵隊さんが来ました。後ろの塀を乗り越えて入つて来ました」と告げたから、直感的に愈々やつたなと思つて、すぐ跳ね起きて何か防禦になる物はないかと、床の間にあつた白鞘の剣を取り、中を改めると槍の穂先で役に立とうとも思われなかつたから、それはやめて、かねて納戸〈ナンド〉に長刀〈ナギナタ〉のあるのを覚えていたから、一部屋隔てた納戸に入つて探したけれども一向に見当らない。その中〈ウチ〉にもう廊下や次の部屋あたりに大勢闖入〈チンニュウ〉した気配が感ぜられた。そこで納戸などで殺されるのは恥辱であるから、次の八畳の部屋に出て電灯をつけた。すると周囲から一時【いつとき】に二、三十人の兵が入つて来て、皆銃剣を着けたままでまわりを構えの姿勢で取巻いた。その中に一人が進み出て「閣下ですか」と向うから叮嚀な言葉で云う。それで「そうだ」と答えた。
 そこで私は双手を上げて「まあ静かになさい」とまずそう云うと、皆私の顔を注視した。そこで「何かこういうことがあるに就いては理由があるだろうから、どういうことかその理由を聞かせて貰いたい」と云つた。けれども誰もただ私の顔を見ているばかりで、返事をする者が一人もいない。重ねて又「何か理由があるだろう、それを語して貰いたい」と云つたが、それでも皆黙つている。それから三度目に「理由のない筈はないからその理由を聞かして貰いたい」と云うと、その中の帯剣してピストルをさげた下士官らしいのが「もう時間がありませんから撃ちます」とこう云うから、そこで、甚だ不審な話で、理由を聞いても云わないで撃つと云うのだから、そこにいるのは理由が明瞭でなく只上官の旨を受けて行動するだけの者と考えられたから、「それならやむを得ません、お撃ちなさい」と云つて一間ばかり隔つた〈ヘダッタ〉距離に直立不動で立つた。その背後の欄間〈ランマ〉には両親の額が丁度私の頭の上に掲つていた。
 するとその途端、最初の一発を放つた。ピストルを向けたのは二人の下士官であつたが向うも多少心に動揺を来たしていたものと見えて、その弾丸は左の方を掠めて後力の唐紙を撃ち、身体には当らなかつた。次の弾丸が丁度股の所を撃つた。それから三番目が胸の左乳の五分〈ゴブ〉ばかり内側の心臓部に命中してそこで倒れた。倒れる時左の眼を下にして倒れたが、その瞬間、頭と肩に一発ずつ弾丸が当つた。連続して撃つているのだからどちらが先か判らなかつた。
 倒れるのを見て向うは射撃を止めた。すると大勢の中から、とどめ、とどめと連呼する者がある。そこで下士官が私の前に坐つた。その時妻〔鈴木たか〕は、私の倒れた所から一間も離れていない所にこれも亦数人の兵に銃剣とピストルを突き付けられていたが、とどめの声を聞いて、「とどめはどうかやめて頂きたい」と云うことを云つた。
 丁度その時指揮官と覚しき大尉の人が部屋に入つて来た。そこで下士官が銃口を私の喉に当てて、「とどめを刺しましようか」と聞いた。するとその指揮官は「とどめは残酷だからやめろ」と命令した。それは多分、私が倒れて出血が甚だしく惨憺たる光景なので、最早蘇生する気遣いはないものと思つて、とどめを止めさせたのではないかと想像する。
 そう云つてからその指揮官は引きつづいて「閣下に対して敬礼」という号令を下した。そこにいた兵除ば全部折敷き〈オリシキ〉跪いて〈ヒザマヅイテ〉捧げ銃〈ササゲツツ〉をした。すぐ指揮官は、「起てい、引揚げ」と再び号礼をかけた。そこで兵隊は出て行つてしまつた。
 残つた指揮官は妻の所へ進んで行つた。そして「貴女は奥さんですか」と聞いた。妻が「そうです」と答えると指揮官は「奥さんの事はかねてお話に聞いておりました。まことにお気の毒な事を致しました」と云う。そこで妻は「どうしてこんなことになつたのです」と云うと、指揮官は「我々は閣下に対して何も恨みはありません。只我々の考えている躍進日本の将来に対して閣下と意見を異にするため、やむを得ずこういうことに立ち至つたのであります」と云つて国家改造の大要を手短かに語り、その行動の理由を述べた。妻が「まことに残念なことを致しました。貴方はどなたですか」と云うと指揮官は形を改めて、「安藤輝三〈アンドウ・テルゾウ〉」とはつきり答え、「暇がありませんからこれで引揚げます」と云い捨ててその場を去り兵員を集合して引揚げた。その引揚げの時、安藤大尉は女中部屋の前を通りながら、閣下を殺した以上は自分もこれから自決すると口外していたということを、これは引揚げた後女中が妻に報告した話である。(果して安藤大尉は山王の根拠地に引揚げた後、自殺を企て拳銃で喉を撃つたが急所を外れて死に至らず治療して治つたが、軍法会議の裁判の結果死刑になつたのである。)【以下、次回】

 最後のカッコ内に、「果して安藤大尉は山王の根拠地に引揚げた後、自殺を企て拳銃で喉を撃つたが」云々とある。これだと、自殺を企てたのは、鈴木貫太郎を襲撃した二月二六日だったかに読めるが、安藤輝三大尉が自殺を企てたのは、「投降」を決めた二月二九日である。

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私が白川家に御製を伝達した(鈴木貫太郎)

2023-01-13 00:39:24 | コラムと名言

◎私が白川家に御製を伝達した(鈴木貫太郎)

『特集文藝春秋 天皇白書』(一九五六年九月)から、鈴木貫太郎の回想記「嵐の侍従長八年」を紹介している。本日は、その三回目。昨日、紹介した部分のあと、次のように続く。

  紊乱する政治の大網
 上海事変の一つのエピソードに触れておこう。
 上海事変の時白川〔義則〕大将が軍司令官で上海の支那軍を撃破し、南京までは行かず途中で進撃をやめて戦〈イクサ〉を収めたことがある〔一九三二年三月三日〕。すると白川君に対し陸軍の各方面から、何故もつとやらないかと非難して来た。軍の幕僚も南京までやつけろという意気込みだつたが、白川君は断乎としてこれを制してこの問題を収めた。ところがこれは、白川君が軍司令官として出発する際、陛下から敵を撃破しても長追いせず戦を収めるようにという御内意を承つて、それを忠実に強行したのであつた。その停戦の結果、当時ジュネーヴの国際会議で日本に対して険悪な非難攻撃があつた、その論議が消滅してしまつたのである。
 間もなく上海に朝鮮人の爆弾事件があり〔一九三二年四月二九日〕、白川君は負傷して亡くなられ〔同年五月二六日〕、野村吉三郎〈キチサブロウ〉大将、植田謙吉大将、重光葵〈シゲミツ・マモル〉氏等が、負傷された。
 その翌年〔一九三三年〕の三月三日は上海事変の収まつた日である。陛下は亡き白川大将を御回想あらせられてお歌をお詠みになり、そのお歌を入江さんに短冊に書かせて白川家に御下賜になつた。そのお使いに私が白川家に御製〈ギョセイ〉を伝達した。そのことは武官長から陸軍大臣に通知したと思うが、本庄繁武官長〔ママ〕は私にこれは十年間秘密を保つて貰いたい。そうでないと満洲方面や支那方面の陸軍部内に不満を生ずるかも知れないということだつた。それに対し私は白川家で秘密を保てば私も秘密を保つと云つた。しかし私は正しい御仁慈をことさらに内證にしなければならんというのは歎かわしいことで、軍紀が紊乱しているなという感じを受けたのであつた。このことはその後伝えられなかつたようであるが、もう約束の十年も過ぎているから話しても差支えないと思う。
 侍従長に関係はなかつたが、何と云つても世間を動揺させた事件は五・一五事件だつた。軍人がだんだん政治に干渉し政政権に乗出す機運が盛んになり、その障碍になる者を犧牲に供するような世相になつて、犬養内閣も結局この災いに罹つたのであつた。
 犬養毅〈イヌカイ・ツヨシ〉氏のやられた原因は満洲問題と云われたが、政友会内の勢力争いも含まれていたようだ。そしてそのともがらは軍人と結託したと云う噂があつた。犬養氏は満洲の独立に反対した。そして策動家の手先になつた軍人が遂にあの暴行を敢てしたのだつたが、その後始末に実に遺憾の点か多かつた。
 如何なる理由があるにせよ、あの暴徒を愛国者と認め、しかも一国の宰相を暗殺した者に対して減刑の処分をし、一人の死刑に処せられる者のなかつたということは、国家の綱紀から見て許すべからざる失態であつたと思う。そのために政治の大綱が断ち切られたような気持がした。もしあの場合、真に政治に明るい者があつたなら、もつと厳しく処分しなければならなかつたろう。それが緩やかであつたため遂に二・二六事件を引起した。二・二六事件の起る温床は五・一五事件の後始末の不手際によつて培われたのである。
 二・二六事件の前触れを感じたのは、昭和十年〔一九三五〕九州大演習の際私達が暗殺されたという流言が行われた時である。それから二・二六事件の十数日前、今度は何か不穏な陰謀が陸軍の青年将校の間に企てられ、それがよほど進んでいるという噂を耳にした。何か革新運動(国家改造問題)を企らみ〈タクラミ〉それの障碍になる大官を片づけるのだという風説があり、本庄君からも気をつけるようにという忠告があつた。【以下、次回】

 ここでいう「上海事変」は、「第一次上海事変」(一九三二年一月~五月)を指す。
 昭和天皇が亡き白川義則(しらかわ・よしのり)大将を回想して歌を詠んだのが、鈴木貫太郎が言うように、翌一九三三年(昭和八)の三月三日だったとすれば、その時の武官長は本庄繁(ほんじょう・しげる)ではなく、奈良武次(なら・たけじ)である。
 また、「そのお歌を入江さんに短冊に書かせて」とあるが、その入江さんというのは、おそらく、歌人の入江相政(いりえ・すけまさ)であろう。

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加藤寛治軍令部長の上奏をめぐる問題

2023-01-12 02:38:33 | コラムと名言

◎加藤寛治軍令部長の上奏をめぐる問題

『特集文藝春秋 天皇白書』(一九五六年九月)から、鈴木貫太郎の回想記「嵐の侍従長八年」を紹介している。本日は、その二回目。昨日、紹介した部分のあと、次のように続く。

  政 争 と 上 奏
 昭和五年〔一九三〇〕軍縮会議がロンドンで開かれることになり、若槻礼次郎氏か使節で行かれ、海軍から財部〔彪〕海軍大臣が行くことになつた。その間出先と海軍との間は始終連絡していた。当時加藤寛治〈カトウ・ヒロハル〉君が軍令部長、濱口雄幸〈ハマグチ・オサチ〉総理が海相を兼任していて軍縮条約の兵力量問題に関しては出先とこちらとの間には相当話し合いが付いていた。
 ところが或る日、その条約のことに就いて濱口君から上奏するという申し出があつたので、私は早速陛下に御都合を伺い、明日何時という御指定があつた。そこへ軍令部長からも何か上奏を御願いするということを〔奈良武次〕武官長の方に云つて来た。それで先に御指定になつた総理大臣の拝謁の後に軍令部長の上奏のことになつた。
 その前日山梨〔勝之進〕海軍次官が私の官舎に来て、ロンドン条約に就いて非常に混乱が起つた。それで何でも加藤軍令部長が総理の反対上奏をするという噂があることを聞いた。その時は、反対上奏なんてそんな事のあろう筈がない。何かの噂でしようと云つて、あまり取り上げなかつた。ところが翌日、その時の話のようにどちらも上奏を願つて出ている。これは変だなと考え、どういう事なのか軍令部長に会つて聞いて見ようと思つて、軍令部長に官舎に来て貰い、「明日君は上奏されるという事だが、一方では総理からも上奏する。話に聞くと君は反対上奏をするというが、そういう事があるのか」と聞いたら、それは実はそうだと云う。「それは変ではないか。兵力量の事で軍令部長と総理が違つた事を上奏するのは私には判らない。兵力量の決定は軍令部長の任務じやないか。軍令部長がいかんと云つたら総理はそれに従わねばならぬ。自分が決めた兵力量を総理に上奏さしておき、それを又いけませんと上奏するのは矛盾のように考えるが君はどう思うか。兵力量は元々政府が決定するのではなく、軍令部長が決定し、それに政府が従うのが順序で、兵力量は軍令部長の決心如何に関わる。私は軍令部長の時〔全権委員〕齋藤實さんがジュネーブに行かれて、兵力量を出先で勝手に决めたから海軍大臣を通して反対だと電報を打つて取消したことがある。総理が軍令部長の決めた事を上奏し、軍令部長が反対上奏をしたら、陛下はどうなさればいいのか。この問題は上奏し放しとはいかん問題だ。上奏から引いて各々の責任が生ずる。よくその辺を考えてはどうか」と加藤君の行動に過ちがないように忠言した。すると「成程そうだ。よく判つた。早速これから武官長の所に行つてお取下げ願う」と云つて帰つて行つた。それで上奏は中止され、この問題は一段落ついてしまつた。
 これが世に私が上奏を阻止したという風に宣伝された事柄であるが、軍部の上奏は侍従武官府の取扱いで、侍従長としては軍部の上奏には関係がないのだ。
 やはりこの時も政友会と民政党の權権力争奪の行動があつたように思う。そういう風に事柄を紛糾させて内閣を倒す謀略に使つたのだが、それがうまく行かなかつたので、軍令部長の上奏阻止ということを云い触らしたのだ。
 又加藤君もその成行きを人々に了解させるだけの手段を取らずに、世間の流言をそのままに放置していたようで、それで世の中に誤解を起したことは、私から云えば真に遺憾なことであつた。
 一つの兵力量に対して政府と軍令部長とが違つた上奏をすることは、何といつても道理に合わないことで、軍令部長がもし兵力が不足だと思つたら、何処までも政府に反対すべきだし、どうにかこうにかよかろうと思つたら承諾すればいい。どうしても政府の考えるように行かない時は総理軍令部長かどちらかが辞職すべきだろう。政府が頑張るなら、それでは自分は責任が取れないから、新しい軍令部長にやつて貰つたらどうかと進言するのがこういう場合に採るべき常道だろうと考える。とにかく軍令部長が自分の職責をはつきり知らなかつたために、徒らに混乱を来たした嫌いがあるが、今からあの問題を考えてみると、政友会の一部の人の陰謀に軍令部長が飜弄された観がある。併し世の中は所謂盲千人で、そういう問題かあると皆それに附和雷同することがある。この問題が結局反対政党の政府転覆にまで発展して、枢密院に波動を及ぼし、枢密院では結局条約案に同意したが、統帥権干犯などいろいろと論議が起り、その揚句に濱口〔雄幸〕首相が煽動に乗つた無智な者から暗殺されるということになつたのである。【以下、次回】

 最初のほうに、「それで先に御指定になつた総理大臣の拝謁の後に軍令部長の上奏のことになつた」とあるが、そうなった経緯は、かなり込み入っている。これについては、「嵐の侍従長八年」の紹介を終えたあとで補足したい。
 鈴木貫太郎の発言の中に、「この問題は上奏し放しとはいかん問題だ」とある。やや、意味が取りにくい。「これは、上奏したままにしておく訳にはいかない問題だ」という趣旨であろう。

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鈴木貫太郎の遺稿「嵐の侍従長八年」を読む

2023-01-11 03:58:16 | コラムと名言

◎鈴木貫太郎の遺稿「嵐の侍従長八年」を読む

 本日以降、『特集文藝春秋 天皇白書』(一九五六年九月)から、鈴木貫太郎の回想記「嵐の侍従長八年」を読んでみたい。これは、鈴木貫太郎の「遺稿」だという。

 嵐 の 侍 従 長 八 年
    吹き荒ぶ昭和維新の嵐に抗し、二・二六の凶弾にも
    屈せず、天皇に仕えた武弁一辺の古稀までの八年間
    の秘録を記述する元総理大臣、海軍大将の遺稿

  微妙な宮中席次【略】

  陛下の御先見【略】

  田中義一の苦衷
 田中義一内閣の辞職の問題は、私が侍従長になる前に起つたことで、田中総理大臣から張作霖〈チョウ・サクリン〉を殺したのは日本の陸軍の将校がやつたことで、これを軍法会議に附して厳格な処置を取らなければならないということを上奏している。その事柄は西園寺公望さんや牧野〔伸顕〕さんにも話してあつた。ところがそれを実行するのに田中義一総理大臣は非常に骨を折つた。当時の内閣諸公が、そうすると日本陸軍の名誉を傷つけるということになり、日本の国辱になるから荒立てずに片附けなければならないと、田中君の決心に対して反対した。その為に田中総理の意見は陸軍及び内閣諸公によつて阻まれて実現することが出来ないでいた。その中〈ウチ〉に反対党の民政党から張作霖事件の実情を話せとしきりに迫つて来た。そこで白川義則〈シラカワ・ヨシノリ〉陸軍大臣は、あれは支那人がやつたので日本の陸軍がやつたのではない。併しその駐在軍の権域内で起つたことだから駐在武官は行政処分に附する。と云つたような事で議会に臨もうとした。そしてその事を白川君は陛下に上奏した。
 そこで陛下は先に総理大臣が上奏した事と全く違つた上奏を陸軍大臣がしたので、田中総理の拝謁の際にその両人の上奏の食運いを詰問されたので、田中総理は恐懼〈キョウク〉して御前を退下〈タイゲ〉してからその事を私に話した。そして自分は辞職すると云うのだつた。それに対して私は真に気の毒なことだと思つたが、侍従長として何等返事することが出来ない。勿論総理の上奏には侍従長は侍立したのではない。上奏の際の様子は自分には少しも判らない。総理は内々に私に話されたであつた。
 これが田中内閣の辞職の原因であるが、その時の情勢を後から聞けば、内閣にもいろいろな議論が湧いて、内閣の辞職を総理が一存で決めるのはいかん、今一応事情を申上げて辞職しないように取計らいたいという意見もあつた。田中総理は自分は心が萎えて〈ナエテ〉それは出来ないと断つたと云う。そんなことがあつたからだろう、閣僚の二三が私を訪ねて来て、陛下と総理の間に入つて、お執りなしをしては貰えまいかと云う。私は、それは違う。侍従長はそういう位置ではない。侍従長は総理の洩らされたのを聞いただけで、それ以上は侍従長としてどうしようという事は出来ないと云つて断つた。
 張作霖事件は今日になつて見れば明らかに日本人のやつたものだということが判る。政治家が正直にそれを認め率直に中外に告げたなら、国辱どころか、正義の上に立ち大道を行く政治家として却つて信用が高まつたであろうに、陸軍や政党が臭い物に蓋をする式なやり方をする、公明正大ではない政治、この腐敗が今日をもたらした遠因であろう。私は当時の田中総理に同情する者だが、あの当時政友会の一方では内閣の辞職を宮中の陰謀だと云い、牧野や鈴木〔貫太郎〕が政友会内閣を倒したのだと云つたものである。自己の不正不義を棚に上げてそういう宣伝をしたのであつた。【以下、次回】

 張作霖爆殺事件が起きたのは、一九二八年(昭和三)六月四日、鈴木貫太郎が侍従長に就任したのは、一九二九年(昭和四)一月二二日、田中義一内閣の総辞職は、同年七月二日である。当時、西園寺公望は「最後の元老」で、牧野伸顕は内大臣だった。
 なお、波多野澄雄氏の『宰相鈴木貫太郎の決断』(岩波現代全書、二〇一五年七月)によれば、昭和天皇による田中義一問責(一九二九年六月二七日)は、事前に、牧野伸顕内大臣、鈴木貫太郎侍従長らの間で「協議」が進んでいたという。ただ、牧野と鈴木が、この件で元老の西園寺公望に相談すると、西園寺の意見は、「天皇による首相問責は、明治天皇時代から先例がなく、首相の進退に直接関係するので控えるように」というものであった(七ページ)。

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