◎パンは、はじめに餡無し饅頭といつたさうだ
三浦藤作の『古典の再検討 古事記と日本書紀』(日本経国社、一九四七)を紹介している。
本日は、その九回目で、前回に続いて、第二章第四節の〔四〕を紹介する。昨日、紹介した部分のあと、改行せずに、次のように続く。
「古事記伝」の随所にかうした神秘思想が現はれてゐるのみならず、本居の著書には、この臭味が紛々として鼻を衝くものが多い。外来の学問に心酔して、魂まで奪はれてしまつた漢学者にも困つたものであつた。しかし、文化が交流によつて進歩することは、否定し難い事実である。儒教や仏教を摂取して、内容を豊富にし外形を整備し、全面的に著しく発展した文化を排斥し、極端な尚古主義に立脚し、幼稚な記録たるに過ぎない古典に拘泥し、それを美化することが、果して日本民族の文化的素質を向上せしめる学問の正道であつたかどうか、ここに厳正な批判を下さなければならぬ重大な問題が潜んでゐる。言語及びそれを表現する文章の如きものは、時代の進運に伴つて変化する。人為的に改めることの出来るものではない。漢字の浸潤が既に久しく、漢語が著しく国語化してゐた時に、本居はその国語化した漢語を排して、古語の復活をはかり、漢字に国訓を附し古文体の文章を書き、それを本格的の国文であるかのやうにした。漢文以上に迂遠〈ウエン〉なその愚劣極まる文体が一般に普及するわけはない。若し仮に今日まで言語や文章がそれに拠らなければならぬことになつてゐたら、どれだけ不便を感じたであらう。前にも述べたとほり、漢意の文字をカラゴコロと訓み、神官をカムヅカサと訓むならば、電車はイナヅマグルマ、鉄橋はクロガネバシと訓まなければならない。パンやカボチヤの如き名詞は何といふ言葉に改めたらよいか。パンははじめに餡【あん】無し饅頭といつたさうだが、今そんな名に改めたら、誰もみな滑稽に感ずるであらう。言語の時代錯誤と共に、厳正に審判しなければならぬのは、彼の偏狭な国粋主義である。彼が「古事記」といふ訓み方さへもよく判らなかつた古典の研究に生涯を献げた努力と、浩瀚な注釈を完成した業績は、何としても没し難いものと認めざるを得ない。しかるに彼は神話の性質を理解せず、古本の中に出てゐる神話、原始民族の伝承を後世に至つて記録した神代の話を、歴史上の事実と独断し、日本の国を神の創造せるもの、万国に勝れたる神国として、極端に外来文化を排斥し、皇国の道なるものを強調し、この道を学ぶことを学問の本義とした。その思想は、明らかに偏狭な国粋主義であり、尚古主義であり、排外主義であつた。これは本居宣長の独創的思想でなく、国学者や神道家に一貫した伝統的思想である。極言すれば、国学といひ、神道といふは、この思想の上に成り立つた学問であり宗教であつた。宣長は造詣深き古典の知識を基礎として、旗幟鮮明〈キシセンメイ〉にその思想を強調した代表者の一人たるに過ぎない。しかし、彼の学才と業績が群を抜いてゐたために、多くの私淑者や追随者があらはれたので、後世に大いなる影響を及ぼした。国粋主義の提唱が、国民的自覚を促し、武家政治の崩壊を誘導する思想上の原動力となつた功績は、甚だ大いなるものであつたことを認めざるを得ない。しかし、その反面に、「古事記」の如き古本によつて伝はつた神話を唯一の典拠として、日本の国を世界に勝れた神国と自負し、極端に他国を賤視排斥するこの思想、我が家の仏のみを尊しとする偏狭な国粋主義が、果して日本の国運の発展と日本民族の福利の増進とを齎す〈モタラス〉ものであるかに、大いなる疑ひを抱かざるを得なかつた。予は古典に深き親しみを感じてゐる。これを愛読し、尊重することに於て人後におつる者ではないが、夙に懐抱せる古典の性質と神話の性質についての見解は、終始一貫、改めることが出来ない。【以下、次回】