◎長谷川昇、赤報隊と博徒との関わりを指摘
拙著『攘夷と憂国』の第六章「赤報隊の悲劇」の一部を紹介している。本日は、その三回目。同章の第六節を紹介する。
◎赤報隊と博徒
高木俊輔氏は、『維新史の再発掘』(一九七〇)の「あとがき」で、草莽たちとのかかわりで見逃すことのできない博徒やヤクザについては、「筆が及ばなかった」と述べている。
それから七年後の一九七七年、長谷川昇(一九二二~二〇〇二)は、『博徒と自由民権』(中公新書)という本を世に問うた。これは、出たとたんに古典となったと評されてもよいほどの名著である(現在は、平凡社ライブラリー)。
同書は、自由民権運動の激化事件のひとつである「名古屋事件⒀」(一八八四年発覚)についての研究書であるが、同時にまた、「明治維新と博徒」という結びつきについて、きわめて有益な示唆を与えた本でもあった。さらに、赤報隊と博徒との関わりは、この本によって、初めて示唆されたのであった。
同書によれば、幕末の岐阜に、水野弥太郎(本名・弥三郎)という有名な博徒の親分がいた。合渡の政五郎、関の小左衛門とともに、美濃三人衆と称されていたという。
慶応四年(一八六八)二月、その水野弥太郎が総督府の命を受けた大垣藩によって召し捕られ、数日後に獄死するという事件があった。その際、東山道鎮撫総督執事の名で、次のような「掲榜」が掲げられたという。
尾張領岐阜在 水野弥太郎
右ノ者従前天下ノ大禁ヲ犯シ、子分ト称シ候無頼ノ徒ヲ嘯集シ奸吏ト交ヲ結ビ良民ヲ悩シ候件々少ナカラズ、剰へ官軍ノ御威光ヲ仮リ〔借り〕恣ニ人命ヲ絶候段不届至極ニ付召寄セラレ御詰問ノ処、一言申訳相立ズ伏罪ニ及ビ候ニ付入牢仰付ラレ近々斬罪ノ上梟首仰付ラルベキ筈ノ処、死去イタシ候ニ付其ノ儀ニ及バズ候、百姓町人共、右ノ次第篤ト相心得可キ者也。
二月 東山道鎮撫総督執事
〔尾張領岐阜在 水野弥太郎 右の者、以前から天下の禁制を犯し、子分と称する無頼の徒を呼び集め、腐敗役人と交際して良民を悩ませることが少なくなかった。のみならず、官軍の御威光を借りて、ほしいままに人命を損なったことは不届き至極であり、召喚して詰問したところ、一言も弁明できず罪に服することとなり入獄を命じられたのである。近々斬罪とし、首をさらす予定だったが、獄中で死去したのでその儀には及ばない。百姓や町人どもは、右の経緯をよく心得ておくべきである。 二月 東山道鎮撫総督執事〕
この一件について、長谷川昇は、「剰へ官軍ノ御威光ヲ仮リ」という字句、あるいは捕縛された時期から考えて、水野弥太郎とその子分たちが、「この直前にこのあたりを通過して東上して行った相楽総三らの赤報隊に関連しているものと思われる」と述べたのであった。
その後、長谷川は、「黒駒勝蔵の『赤報隊』参加について――水野弥太郎冤罪・獄死事件」(『東海近代史研究』第四号、一九八二)というスリリングな論文を発表し、赤報隊には、水野弥太郎のみならず、清水次郎長の宿敵として知られる甲州博徒・黒駒勝蔵も加わっていたことを論証した⒁。のみならず、こうした有力な博徒が加わったことが、結果として赤報隊の悲劇を招いた可能性があることを説いたのであった。
残念ながら、この重要論文は、大きな図書館で、『東海近代史研究』のバックナンバーを閲覧する手続きをとらないと読むことはできない。しかし、『攘夷と皇国』に、その梗概を紹介しておいたので、ご参照いただければ幸いである。
⒀ 名古屋事件の指導者・実行グループは、ほとんどが博徒であった。この事実を初めて明らかにしたのは、『博徒と自由民権』である。
⒁ 慶応四年(一八六八)四月、鎮撫使・四条隆謌の親衛隊長・池田数馬と名乗る人物が東海道を東に向かい、駿府を通過しようとしていた。この池田数馬の正体は、黒駒勝蔵であった。このとき黒駒は、同地の大親分・安東文吉に仲介を依頼し、宿敵の清水次郎長と和解したとされる。なお黒駒は、明治四年(一八七一)、旧幕時代の罪を問われて斬に処せられた。
以上が、第六章の第六節である。ルビは、すべて割愛した。