礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

赤報隊事件に権力の狡知を見る

2023-05-24 04:18:32 | コラムと名言

◎赤報隊事件に権力の狡知を見る

 拙著『攘夷と憂国』の第六章「赤報隊の悲劇」の一部を紹介している。本日は、その四回目(最後)。同章の第七節を紹介する。

◎狡兎死して走狗烹らる
 長谷川論文が紹介している事実経過を見ると、東山道鎮撫総督府は、慶応四年(一八六八)一月下旬のある時点から、赤報隊の解体・抹殺を画策し始めたようだ。赤報隊の主力が「博徒」だったという認識に立ってこれを解釈すると、東山道鎮撫総督府は、一度は博徒の武力を利用したものの、ある段階から、博徒(無頼賊徒)の武力とその影響力を危惧しはじめ、かつ博徒の武力を利用したという事実を抹殺しようと考えはじめたということが言えるかもしれない。
 相楽隊は、慶応四年(一八六八)二月一八日、追分(信濃追分)で東山道軍の攻撃を受ける。官軍が賊軍(偽官軍)になった瞬間であった。以下は、依田憙家「明治元年赤報隊の展開」からの引用である。

 二月一八日未明、小諸藩兵百名と御影陣屋の農兵二〇〇名とは追分の赤報隊を急襲した。御影陣屋の兵は名は農兵であるが、実際には日ごろ陣屋で使っていた目明しや博徒であったという。この戦で赤報隊の主力〔桜井隊〕は壊滅的な打撃を受け、金原忠蔵は討死し、桜井〔常五郎〕も一時逃れたが、一九日にいたって発地村で御影陣屋の公事方の手で捕縛された。
 二月二三日に下諏訪に帰った相楽総三は、ここで佐久郡における赤報隊主力の壊滅を知った。このころ相楽の下にはなお一二五名の隊員があったが、佐久における事件を聞いて逃亡者が相つぎ、五七名に減ったという。二八日には薩藩と大垣藩の兵が到着したので、相楽は陳情書を提出している。〔中略〕
 これらの文書によると、相楽はこの段に至るもなお自らを「官軍」と信じて疑わなかったようである。とくに第一・第二の文書においては、この事件は「不勤王藩」たる小諸藩らの陰謀であると訴えている。しかし、第三の文書においては、さすがにこの事件は総督府の処置とも関係があるかも知れない、少なくも何か関係がありそうだと気づいたようであり、「仮令果テ令之出候トモ、一応之応接モ有之候テモ可然、然ルニ殊ニ討取候様ニト申令ニモ無之、…」と、「たとえ出たとしても」とその可能性をみとめ、それにしても一言の問い合せもなく不意討ちをしかけるのは、官軍に敵意のある証拠だとしているのである。

 小諸藩兵・「御影陣屋の兵」の攻撃によって、主力を失いながら、なお、みずからを「官軍」と信じ、陳情書を送る(宛名は、「本営執事中」)。「狡兎死して走狗烹らる」というが、相楽隊の悲劇を、これほど的確に表現した言葉は、ほかにないだろう。
 しかし、私がそれ以上に悲劇だと感じたことがある。それは、相楽軍を攻撃した「御影陣屋の兵」の実態が、「目明しや博徒」であったことである。新政府側は、赤報隊を「無頼の徒」、「無頼の党」と呼んで貶めていた。長谷川昇の研究によれば、赤報隊には、事実多くの「無頼の徒」が参入していた。その赤報隊(相楽隊)に対する攻撃を「目明しや博徒」に命ずるとは。このとき、「御影陣屋の兵」が襲撃したのは、依田論文によれば、農民を中心とした桜井隊だったようだが、その場合であっても、草莽に草莽をぶつけるという図式に変わりはない。「夷を以て夷を制す」。何という権力の狡知であろうか。

 以上で、『攘夷と憂国』第六章の紹介を終える。なお、同章の参考文献として挙げておいたのは、次の十一冊。

・太政官『復古記』内外書籍、1928~1931
・信濃教育会諏訪部会『相楽総三関係資料集』信濃教育会、1939(青史社、1975)
・長谷川伸『相楽総三とその同志』新小説社、1943(中公文庫、1981)
・諏訪教育会(今井広亀執筆)『諏訪の歴史』諏訪教育会発行、1955
・高木俊輔『維新史の再発掘』NHKブックス、1970
・依田憙家『日本近代国家の成立と革命情勢』八木書店、1971
・高木俊輔『明治維新草莽運動史』勁草書房、1974
・長谷川昇『博徒と自由民権』中公新書、1977(平凡社ライブラリー、1995)
・長谷川昇「黒駒勝蔵の『赤報隊』参加について―水野弥太郎冤罪・獄死事件」『東海近代史研究』第四号、1982
・佐々木克「赤報隊の結成と年貢半減令」『人文学報』〔京都大学人文科学研究所〕第73号、1994
・『詳説日本史』山川出版社、2002年検定済

*このブログの人気記事 2023・5・24(9・10位の伊藤克は久しぶり)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする