◎人は矛盾を生きるほかはないのだ(青木茂雄)
青木茂雄さんの紀行文「山行雑記」(一九八五)を紹介している。本日は、その四回目(最後)。
正午すぎ、野呂川林道にたどりついた。道端には工事関係の乗用車が一台とまっており、中に男一人が昼寝していた。近くの沢で浴びるほど水を飲み、一服して出発しようとしたとき、男は車の中から身をのりだして大きく伸びをした。私は、たった今しがたまで経験してきたことを語ってみたいような表情を確かに浮かべたのに違いないのであったが、彼は無表情に私の方に一瞥を投げると再び座席に横になった。
夜叉神峠まではまた数時間歩かねばならぬ。昇りもある。
その日の夕刻、とにもかくにも列車の中におさまった。窓の外は激しい雷雨だ。南アルプス連山は濃い雲にかくれて見えない。
車中ではなぜか気が重かった。煙草も吸う気になれぬ。座席のすぐ横に置いてあるうす汚れたキスリングもいまわしいやっかいなただの荷物に思われてならない。いまとなってはすでに大時代めいていて、黄ばんだこの荷物。こんどは最後まで重く感じられた。中には装備一式と若干の食糧の残り物。いったい何でこんな荷物を背負わなければならなかったのか。鳥には、けものには、虫には、荷物があるか。たった三日四日の山行にさえ、人間には重い荷が必要なのだ。このうす汚れたキスリングの中には、四日間のあいだ私を支えていた全〝文明〟が詰めこまれていたのだ。二十キ口を越す〝文明〟を背負い、頭の中には〝自然〟の観念をたえず宿し、そして山道を踏み鳴らしてきた。どこかずれている。どこか交錯している。登山とは妙なものだ。
それに、教日間にわたって私を縛りつけてきた底の硬い登山靴。ついに私の足は山の土をじかに踏むことがなかった。
相互に脈絡のないことからが頭の中を駆けめぐる。次々に目に映った樹木や草々の緑、もうこれ以上結構ですと言いたくなるほどの深い緑。それから、重い軍靴にも似た登山靴でドカッドカッと山道を踏みならしてきた自分。大きいキスリングは背囊【のう】にも似ているではないか。自分がたった今しがたまで行ってきたことが、とても恥ずべきことのように思えてならない。もう山へは来るまい。人が山に入っても山を踏み荒らすばかりだ…………。
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八月六日。通い慣れた、冷房の効いた喫茶店のなかで、今この文章を書き終えた。外は猛暑だ。やわらかいフロアを踏みしめていると、再び山々の姿が心の中に浮かんできた。それは以前にもましてはっきりとりんかくが見える。そして、その姿は私の心を揺さぶる。何かが心の底からこみ上げてくる。できることなら、明日にでも山に入りたい。何物かに、私は心のうちで深々と頭を下げた。
人は矛盾を生きるほかはないのだ。