正しく生きることができるなら、それはとても素晴らしいことなのだろうと思う。
ただ、現実問題としてそれはとても難しい。
嘘をつかない生き方はどうだろう。
それはそれでやはりとても難しいと思うし、嘘も方便という状況は珍しくない。
嘘をつかないことが必ずしもいいことだとは限らない。
妥協案…というか実現可能な目標として、僕は約束を守る生き方をしようと思う。
易きに流れるのを律することにもなるし、相手を尊重することにもなる。
それはあくまでも僕個人のルールであってそれを人に強要することはあってはならない。
ただ、子供例外だ。
僕が考えているのと同じように、約束を守る人間になってほしいと思う。
決して崇高な人間ではないけれど、少なくとも約束を守る人間ではあるという矜持を持ちたい。
子どもにもそういう気持ちを継いでもらいたい。
だけど、子供は安易に約束しすぐにそれを反故にする。
子供だからと言ってそれを許すべきではないと思う。
約束という行為の重みを知って欲しい。
何度言っても分かってくれないけれど。
時に境界が分からなくなる。
子どものための指導なのか、単なる八つ当たりなのか。
僕は腹が立っても他人に厳しいことはほぼ言わない。
何か言うことで相手に不快感こそ与えても相手の行動を変えることなんてできないから。
そんな相手には最初から期待しない。
でも子ども相手ではそうはいかない。
簡単に変えられなくても変えていかなければいけない。
少なくとも僕が尊重していることに関しては子どもにも大切にしてほしい。
ただそれが精神的な虐待にならないように常に気をつけておかないといけない。
傷つけるだけ傷つけてそれに見合うものが得られないなら、そんなことは断じてすべきではない。
同じ理由で僕は体罰はしない。
子供に手を上げないのは僕の中のもう一つのルールでもある。
でも声を荒らげることと体罰の違いはなにかと考え始めるとこれもまた難しい。
何にせよ、まずは自分自身が器の大きい人間になりたいものです。
妻と子供が帰省して、自分は病院のオンコールで待機の日、病院の近くにある市営プールに行きました。呼び出されてもすぐに行けるのがいい。
近くのスーパーに「おかえり!ふるさと●●に!」という幕が掲げられていました。
僕はここが地元というわけではないので特に何の感慨も抱きませんが、
久々に帰省した人にとってはぐっとくるのでしょうか。
また店側の人はどんな気持ちで用意したのかなと思います。
最近、母方の祖父のフロンティア精神はすごいなとしばしば思います。
愛媛に全くゆかりのなかった祖父が大学のポストがあるという理由で家族を連れてきて永住する。
思い切りのいい行動だと思います。
保守派の僕にはなかなか考え付かない行為です。
どういう思いでそうしたのか、聴く機会があれば聞いてみたかったな。
うちの子どもたちはふるさとが定まっていません。
少しかわいそうだなと思う反面、地元に固着しなくていい分自由に行動できる強みもあるかもしれません。
何事にもいい面と悪い面があります。
今年6歳になる娘はヤマハの音楽教室に通っています。
初期に比べればできるようになったことも増えましたが、いまだにかなり音痴です。
楽器で音を出しながらこの音に合わせてと指示してもそれができないんですよね…
本人にはどう違っているのか分からないようで…僕にはどうしたらいいのか分かりません。
他の習い事に比べ苦手意識があるようです。ヤマハの宿題をやろうと言ってもなかなか取り掛かりません。
夜眠たくなってから嫌々始めるので集中できないしイライラするし、付き合う親のフラストレーションもかなりのものです。
頑張ってできないのならしかたないのですが、うまくいかないとすぐに癇癪を起こして泣いて投げ出すので、こっちのスイッチも入って悪循環。
向き不向きはあるし、音楽ができなくて将来的に困ることはほぼないとは思います。
ただ、僕としてはやると言った以上は最後までやるべきだと思っています。
あと、ヤマハは後で練習するから先にyoutubeみる…というのは許しちゃだめ。
最近の宿題の中に「ト長調のロンドン橋落ちたをハ長調に移調して練習する」というものがありました。
授業でどのように教えられているか知りませんが、与えられている楽譜はト長調の楽譜のみ。
大学時代に音楽系の部活をやってなかったら、そんなの確実にできませんでした。
(今の知識ならなんとか頭の中でできました 笑)
あと、面白いなと思ったのは左手のコードの練習。
トニック→トニック→ドミナント(セブンス)→トニック を基本形に練習が始まります。
C-durならトニックは普通にドミソですが、ドミナントのG7はシファソで転回された形が最初に出てきます。
いきなりセブンス…と思ったけど、転回されていればそのほうが押さえやすいから理にかなっていますね。
音楽理論の基礎だけ知っていて、ピアノは弾けない僕からすると、なるほどなーと面白く感じます。
ところで「蛍の光」は4拍子なのに対し、お店の閉店時間に流れる「別れのワルツ」は3拍子だということをつい最近まで知りませんでした。
4拍子と3拍子はリズムが違うんだからちゃんと音の長さを意識して!なんてがみがみ言っていた自分が恥ずかしいです。
立派な王国が色褪せていくのは、二流の共和国が崩壊する時よりずっと物哀しい。
村上春樹 「駄目になった王国」より
ヴィターリのシャコンヌが聴きたくなってyoutubeで流しながら記事を更新しています。
聴きたいと思ったら検索一つですぐに再生できるなんて便利な時代になったものです。
「立派な王国が色褪せていく物哀しさ」というフレーズをふと思い返したときに、頭の中でこの曲が自動再生されました。
司法のことはよく分からないけど、今の時代は社会的制裁というのも加味したうえでの罰が必要なんじゃないだろうかとは思います。
近くの低山をハイキングした時に撮った写真です。
ソウシチョウという外来種だろうと思います。
すぐ近所で当たり前のように生活していることにちょっとびっくりしました。
僕が熱血漢でないのは誰の目にも明らかですが、自分としてはそれほど冷血漢でもないつもりでいます。だけど最近、自分の行動は冷たすぎるんだろうかと不安になることがあります。
自分の価値観を人に強要しないことは僕の信条の一つです。自分の主観で人を判断しないように心がけているつもりではありますが、冷淡だと思われているのかもしれないと感じることがときどきあります。
自分に余裕がないから周りに優しくできないのもあります。少しずつうまくいかないことが積み重なっていきます。
まあ、うだうだ言っても仕方ありませんね。やることを一つ一つこなしていくしかありません。
自分語りをだらだらと書きます。
最近、外科医の友人や先輩と会う機会がありました。久しぶりに話して色々刺激を受けました。
世の中色々な人間がいると思いますが、僕の周囲には向上心の強い人間が多いです(外科を専門としているせいもあるかも)。今の30代はゆとり世代、さとり世代だとか言われ、キャリアアップのためにがつがつしない、給料も少なくていいから少しでも仕事を減らしたいというスタンスの人が多いと言われます。確かに昔のように残業を当たり前のように強いられることには抵抗があります。
でもそれは向上心がないのとは別次元の話ですよね。
人の人生に直結する仕事をしている以上、最低限の努力は怠らないようにしなければいけないとは思っています。ただ、少し上を見るだけで敵わないなと思う人たちがたくさんいます。偉いなあと思うと同時に劣等感を感じます。
社会人になって10年以上がたち、一体どれだけのことができるようになったのかといつも自問しています。
外科医としてのスキルは正直症例数の多い病院の3~5年目の医者と変わりありません。
今の病院にいても経験症例が増えることはないし、僕の能力ではこの環境下ではそれほど能力を伸ばせません。
外科以外の仕事のほうが多いくらいです。
経験年数の割に何もできないという劣等感は異動にも影響を及ぼします。
プライドの問題はあるけれど、それ以上に臨床能力を期待されている病院には行けないという現実的な問題があります。
医局人事的には田舎の病院で文句を言わず、周囲と特に問題を起こさない僕は扱いやすいコマです。
そういう意味では期待通りの働きをしている自負はあるんですけどね。
また、僕は変化を極端に嫌うタイプです。
同世代には転職をサラッとする人も多いですが、新しい環境でこれまで培ってきたスキルをどう生かしていくのか、
それとも心機一転してゼロからのスタートと考えているのか僕には全く想像がつきません。
今の僕は一つの仕事すら満足にできません。
医局内でも10年を超えてくると外科医をやめる人たちがちらほらでてきました。
僕も自分に見切りをつけてそういう選択肢を取るのもありかなとは思っているのですが、踏ん切りがつかないのとそうした場合のビジョンが見えません。
友人と会うのは楽しいのですが、その後しばらくは劣等感にさいなまれます。
何がしたいのか、何ができるのか、何を求められているのか自分でも整理しきれていません。
悩ましいことはつきません。
「自分がどんな死に方をするかなんて、考えたこともないよ。
そんなこととても考えられないよ。
だってどんな生き方をするかもまだぜんぜんわかってないのにさ」
三宅さんはうなずいた。
「それはそうや。でもな、死に方から逆に導かれる生き方というものもある」
「それが三宅さんの生き方なの?」 「わからん。ときにはそう思えることもある」
村上春樹「アイロンのある風景」
―――――――――――――――――――――――――――――――
キャンプのたびに焚火をしています。
妻や子供が寝た後に一人でお酒を飲みながら、ただぼんやりと火を眺めて過ごします。
村上春樹に焚火が出てくる短編があったはずなんだけど、なんだっけなーともやもやしていました。
調べてみて「神の子どもたちはみな踊る」にある「アイロンのある風景」だったと分かりました。
この短編集はすべて阪神淡路大震災に関連した話になっています。
どの話も暗く読むのにエネルギーがいる本だったので、ほとんど読み返すこともありませんでした。
いざ読もうと思うと見当たらず、文庫本を買いなおしました。
読み返してみて、ああこれは大人が読む本だなと思いました。
20歳そこそこの学生には話が沁みなかったのも仕方ない。
いつものようによく分からないプロットは多いし、
面白いかと言われると答えるのが難しいけれど、2回読み直してしまいました。
ざらりとした読後感があり、それが何かを確かめるためにもう一度読みました。
昔は死はまだまだ縁遠いものでした。
でも、あれから東日本大震災も起こりました。
僕自身も年を取りました。
孤独がどういうものか、最近少し分かってきたように思います。
死が規定する生き方は確かにあると思います。
でもそれは事実としてそうであるというだけで、
だからどうしなければいけないとか、どうしておいた方が望ましい、というような話ではないように思います。
それもなんだ不思議な気がするんですが、今の僕はそういう風に感じています。