先日、娘が子供向けに直された「坊っちゃん」を読んでいました。
子供向けに短く編集してあるのもあって、すぐに読み終えてしまいました。読んだふりしただけじゃないかと内心疑い「どんな本だった?」と尋ねたら、
「マドンナが悪い人だった」
え、何その感想。
坊っちゃんは明らかな松山を舞台に描かれた小説ということもあって、地元の人間には割とよく知られています。坊っちゃん団子を筆頭に、小説にちなんだお菓子やら便名が割とたくさんあります。
だから娘もマドンナという登場人物がいることは知っていたようです。
しかし小説を読んで一番記憶に残るのがそこか。
僕も気になったのでその子供向けに訳された坊っちゃんを読んでみました。確かに、この本ではマドンナは婚約相手が貧乏になった途端に男を乗り換えた悪い女でしかない。
原本はもう少し詳しく書かれていたんだっけと思い、青空文庫で改めて読んでみました。
結果、元の小説でも変わらず悪い女でした。笑
これだけ今の松山にマドンナの名前を関したものがたくさんあるのに、小説内では「悪い女」っていいのかな・・。
しかし、今回原文を読み返してみて初めて思いました。純粋に面白い。
大人になって初めて実感できる痛快さがありました。
社会にはびこる面倒くさいもろもろに対し表も裏もなく手あたり次第に悪態をつく主人公。
ストレスを抱えながら働く大人こそが読むべき小説なのかもしれません。
家を購入してまた少し本を読むようになりました。
ベッドの上で読書灯をつけてお酒をちびちびやりながら、好きな本を好きな分だけ読む。
ささやかな幸せです。
お酒をこぼさないよう注意が必要ですが 笑。
それにしても読む本の種類が狭まりました。
最近読んでいる本と言えば、子供に読みかせる絵本くらい。
読書に割ける時間的、能力的ソースがないために、後悔する本はわざわざ読みたくありません。
結局、自分の中ですでに安心感がある村上春樹の中の本から選んでばかりです。
風の歌を聞け、1973年のピンボール、羊をめぐる冒険と読んで現在ダンス・ダンス・ダンスに入りました。
18歳の時にどっぷり村上春樹にはまるきっかけになったのは羊をめぐる冒険でした。
文章の読みやすさも魅力ですが、物語として面白いと感動したのを覚えています。
そこから過去作を振り返り、風の歌、ピンボールも読みました。
それから20年たった今、あたらめて羊三部作とダンスを読み返して思うこと。
この主人公、男としてダメじゃない?
10代だった僕にはそれほど違和感がなかったけれど、いろいろ経験した今は思う。
そりゃ、異性とうまくやっていけないわ…これじゃ。
風の歌、ピンボールではそこまで強調されていないけれど、羊をめぐる冒険でははっきり羊男に言われます。
「あんたは自分のことしか考えてないんだよ」
執拗に3回も繰り返して言われます。
そうなんですよ。
会話の組み立てとかが身勝手というか自分本位というか…いけてない。
村上春樹の登場人物の言動が受け付けないと人が言うのを聞いたことがありますが、今ならそれもわかる。
20年たつと小説の読み方が変わりますね。
ただ主人公の孤独は昔も今も変わらず読者に伝わってきます。
変わったことと変わらないことを楽しみつつ、最後まで読み進めようと思います。
寒くなってきましたね。
寒いのは嫌いなのでちょっとブルーです。
どんよりと曇った晩秋の空を見ていると子供のころみた空を思い出します。
多分年始だったと思います。
実家の隣の母屋の部屋の中。
弟がお年玉で買ったガメラのおもちゃで遊んでいて、いとこが来ていました。
僕は同じ時に小さな緑のラジコンカーを買ったような気がする。
何かして遊んだとか何かが楽しかったとかそういう思い出はありません。
ただその一瞬の光景がすべて。
部屋の中の光景が冬の曇天と結びついているのも変な話ですけどね。
ガメラのおもちゃから推定するとほぼ30年前のことのようです。
同じ空を見ながら時間だけが30年も経ったのかと思うと不思議な感じがしますね。
10代の多感な時、耳にした言葉が妙に記憶に残ることありませんか?
僕は高校の時の数学の先生がふと言っていた言葉が今でも鮮明に記憶に残っています。
ちょっと変わっている人で高校の先生の中でもちょっと浮ていたと思います。
うちの学校では長期休暇の課題として学校のオリジナル問題集が用意されるんですが、
漫画「ジョジョ」のイラストを表紙に印刷して配るような独自路線を行く先生でした。
(今思えば版権の問題とか大丈夫だったんかな)
今も昔も何かにつけて批判される政治家のあれやこれ。
最近だと献金の報告漏れがどうのこうのと…まあたくさん報道されますよね。
昔からあったそういう政治家とお金がらみの報道を受けて、その先生が言っていた言葉
「僕は政治家のそういう不正って別に構わないと思うんだよね。
だってあの人たち政治家になるために若いころに必死に勉強してようやくその地位を勝ち取ったんだよ。
その見返りとして少々そういうことがあってもいいんじゃないって」
失礼な言い方ですが、おそらくそれほど高収入ではなかった先生がそういう見方をする。
(実際たくさんの先生が薄給について愚痴をこぼしていました)
自分の給料はこんなに少ないのに政治家ばっかりいい思いしてずるい。
そんな妬みの感情にまみれた報道が多い中、その先生の意見に感心したのを覚えています。
不正を許すというよりも、努力とそれによって得られたものにもっと敬意が払われてしかるべきだという考え方。
20歳年を取った僕もある程度その考えを支持します。
努力の結果が人にねたまれるような形になるのは決してよいことではないでしょう。
だけど、幸せになるための努力は絶対に必要なものだし、
それをしなかった人にとやかく言われたくないという思いもあります。
子供にそれを伝えるのは難しいです。
言葉で言ったところで分かってもらえないでしょうね。
だから、僕は今も勉強している姿を子供に見せようと思うんです。
たいしたことではないけれど、毎日英語のラジオ講座を聞いて、専門資格のテキストを持ち帰って家で勉強する。
ただの自己満足かもしれないけれど、僕にできることってそのくらいかなと思います。
今の職場の道の反対側にうどんの製麺所があります。
一人で手早く食事を済ませたいときによく行きます。
その店で圧倒的に人気なのはかけうどん、ぶっかけうどんです。
でも僕はもっぱら釜玉ばかり注文しています。
タイミングの問題で釜玉は数分間かかると言われることも多いんですが、急いでいないときは必ず待ちます。笑。
あまり意識してきませんでしたが、僕はうどんが好きというよりも釜玉が好きみたいです。
釜玉だけ僕の中で特別好きなんですよね。
熱いコシのあるうどんって自宅じゃ意外と用意するの難しくありませんか?
熱くするために加熱しすぎると、のびてすぐにちぎれてしまいます。
最近のタピオカ混ぜた冷凍めんとかは違うのかもしれないけど。
釜玉が好きなのには多分思い出補正もあります。
高校の時、一度友達と出かけたときに食べたのがはなまるうどんの釜玉で、それがすごく印象に残っているんですよね。
それが20年以上前のことだと思うとなんだか泣けてくるな。
思い返してみれば、他にも似たようなことがあります。
例えば僕は温泉がすきというよりも露天風呂が好きです。
露天風呂がないなら行かなくてもいいかなと思うくらい僕にとって露天風呂の重要度は高いです。
銭湯か温泉かということも別にどうでもよくて、気持ちの良い露天風呂があればそれでいいんです。笑。
こういう偏愛って変わり者に多そうな気がします。
釜玉食べられないならうどん食べない、露天風呂内ならお風呂に行かない、
・・・確実に変人ですよね。
こんなこと考える人、あんまりいないだろうなあと思いつつ。
ヤンジャンで連載されている漫画「推しの子」にはまっています。
そもそもアイドルに興味がない僕がアイドル漫画に興味を持つこともありませんでした。
ただ、今年YOASOBIの「アイドル」が相当流行りましたよね。
カラオケ(で楽器弾くとき)の持ちネタになるかなと思って聞いてみました。
最初はピンときませんでした。
こんなもんかと思っていたら・・結局この曲の中毒性にあてられて、気づいたらループ再生していました。
今では子供らまで毎日のように口ずさむようになってしまいました・・笑。
YOASOBIは原作を踏まえた歌詞を書くということで、これをきっかけに漫画のほうに興味を持ちました。
短期間で最初から最新話まで一気に読んでしまいました。笑
アイドルの話ではあるけど、ミステリーというかファンタジーというか、ちょっと特殊なジャンルで面白いです。
この漫画で描かれる「アイドル」は、周囲に求められる像を徹底して演じ、本心は近しい人間すら読めないという特徴があります。
そういう傾向はおそらく現実世界でもそうなんだろうと想像されます。
でもそれって、アイドルに限った話ではありませんよね。
本音と建て前を使い分けること。
組織における自分の立ち位置、需要を理解した上でそれを供給すること。
それは職業に限らず、集団生活を送るときには常に必要とされる行為です。
それをアイドルという分かりやすい構造で提示しているところが、人気の一因ではないかと思いました。
そして、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲。
長調の曲だけど、昔から悲しい曲だなと思うんです。
娘に、1楽章にどんな印象受ける?って聞いたら楽しそうと答えました。
まあ、それが普通ですよね。
でも、ひねくれている僕はそうは思いません。
一言でいえば、強がりの音楽に思えるんです。
僕はこんなに楽しいんだ、幸せなんだと朗々と歌いながら、次々と浮上してくるそうでない面を必死に押し殺し表面を繕う。
自分は幸福だと自己暗示をかけるように同じテーマを繰り返し主張する。不安や恐怖から目を背けるように。
なんか「アイドル」と似てるなとふと思ったんです。
陰鬱な本音を包み隠して美しい外見を取り繕う感じ。
文字に起こしてしまうとひどく陳腐な話ですが、普遍的なモチーフだろうと思います。
人生の本当の知恵は「どのように相手に勝つか」よりはむしろ、「どのようにうまく負けるか」というところから育っていく。
一人称単数 文庫版141ページより
こういう言葉が沁みるようになったのも老いた証だなと感じるわけです。
あの頃は良かったなんて言いながらグチグチ言うつもりはありません。
良くも悪くもあの頃にはなかった色々なものを今は手に入れてしまっています。
言うまでもないことだけど、ネガティブに生きていくよりは、ポジティブに生きていくほうが絶対いいですよね。
出張のついでに通い詰めた行きつけのバーに行きました。
美味しいお酒を飲みながら好きな話を思う存分できる空間って他にはない唯一無二のものです。
気持ちよく酔って好きな本を読む。
これってなかなか幸せなことじゃありませんか
そういうことで心を潤していくのは大切なことだと改めて思いました。
自分が欠いているものはたくさんあります。
なんて不完全な生き物なんだろうかと嘆きたくなります。
そんなこと改めて言葉にするまでもない自明のこと。
でも、どこかでそれを認めたくない自分がいます。
昔読んだ斎藤学のニーチェの解説本に
「「でも」も「だって」もなく、とにかく一歩前に踏み出した人を称えて拍手を送るべき」というような一節がありました。
とても素晴らしい姿勢だと思うんですよね。
出る杭を打って何になる?
人の批判をしているだけなんてなんてかっこ悪いんだろう。
僕はそうなるまい。
人に叩かれようとも積極的に踏み出す人間になろう。
そんな風に思っていました。
今の自分は完全に停滞しています。
前に踏み出すことを阻む最大の障壁はなにか。
それは結局のところ、自分の能力の低さ。
なりたい自分と実際の自分との間にはっきり存在する大きなギャップがあります。
何が足りないのか。
熱意?努力?
そういうことを言ってくる人とは根本的に分かり合えません。
何をしようと補うことのできない絶対的な才能の不足があります。
努力でどうにかなりそうな才能を持っている人には分かりません。
そして自分が実際以上にできると勘違いし続けることもまた罪深いです。
僕だって自分だってやればなんとかなるんじゃないかとも思いたいし、努力だってそれなりに積んできました。
でもいつまでたっても劣等感は払しょくできず、事実自分の能力は低いままです。
もっと能力の高い人に道を譲るべきだと考えてしまいます。
外科医である以上、自分の能力が人の生き死にや人生に直結します。
患者なら上手な外科医に手術を受けたいと思うのが当然だし、そうあるべきだと思います。
今まで自分がやれていたのは田舎だったから。
一流の外科医でなくてもいい。地元で治療を受けて、その後の治療も地元で完結させたい。
そういう患者も田舎には居るんです。
その需要があるなら、たとえ街の外科医より質の劣る手術だとしても全力で提供したい。
そう思ってやってきました。
ただ、田舎でも病院を選べば今やロボット手術が受けられるし、
技術認定医というお墨付きの医者に手術が受けられる時代になりました。
手術の多い病院と少ない病院は明らかな格差が付き、少ない病院では当然経験も積めない。
手術をしたい若手は手術件数の集中する病院に集まり、患者もそういう病院に集まる。
症例の少ない病院に勤務する医者は手術をする機会がめっきり減る。
じゃあどうすればいい?
手術をしたいならそういう症例の多い病院へ行けばいい。
だけどもはや若手ではなく経験も才能もない僕は、いまさらそういう病院に修行に行くには分が悪すぎる。
ぐちぐち言いながらそういうストレスからは逃げる臆病者です。
そもそも、そういう熱意があるならもっと若い時期にいくべきだった。
もう手遅れです。
手術がないなら他に何ができるのか。
思い当たるものは何もないんですよね。
探せば医師免許を生かした他の仕事もあるかもしれません。
これまでの経験を生かせないから、ゼロからのスタートということになるけれど。
なんとなく選択しながら生きてきました。
別に努力をしなかったわけではないんです。
いつこんな袋小路に迷いこんでしまったのか。
ぜいたくな悩み?
犯罪を犯して免許をはく奪されない限りはたぶん生きてはいけます。
多分、食っていくのに困ることもないとは思います。
自分はもうちょっとできるはずだ。
ずっと自分を実際以上に大きく見積もってきたつけがまわってきたんでしょうね。
仕事のモチベーションが枯渇しています。
今後の見通しも立ちません。
どうしたいのかも分からないし、どうすればいいのかもわからない。
臆病な自尊心というやつですね。
「お前、年の割に何もできないじゃないか」
そう言われることが一番怖いんです。
そして、それが事実であるということがとてもつらい。
それを認めて細々と生きていくしかないのかもしれません。