アフガン・イラク・北朝鮮と日本

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沖縄グルメとエイサー祭りで抵抗のパワーをもらう

2010年09月16日 13時32分55秒 | なにわB級グルメ探訪
 先日12日の日曜日に、大阪市大正区で行われた「エイサー祭り」という沖縄の盆踊りを観てきました。画像の編集・アップに意外と手間取り、ブログへの公開が今頃になってしまいましたが、取り急ぎ報告しておきます。

   
 「エイサー祭り」が開催されたのは区役所横の千島公園グラウンドです(左上写真)。そこで正午過ぎから夜遅くまで行われました。なぜ大正区かと言うと、ここは実は区民の4人に1人が沖縄出身者で占められる、いわばリトル沖縄なのです。明治以降、木津川と尻無川に挟まれたこの下町(真上写真)には、造船・鉄鋼・機械・製材などの工場が相次いで進出し、そこに沖縄から多くの人が職を求めてやって来て、沖縄人の街が形成されました。千島公園はその下町のオアシスで、園内には地下鉄工事で出た土砂を盛り上げて作られた昭和山という山もあります(右上写真)。

   
 実は私は、たまたまネットでこの祭りの事を知り、「久しぶりに沖縄そばが食べれる」とやって来ただけでした。「エイサー祭り」についても何も知らず、地元の地蔵盆の延長ぐらいにしか思っていませんでした。それが、JR大正駅で降りて市バスに乗ったら、乗客の大半が祭りに向かう人たちだったのでびっくり。会場でも人の多さに驚かされました。お昼前に私が来た時点で、既に数千人に膨れ上がっていたのではないでしょうか。
 元々「エイサー祭り」は旧盆を祝う沖縄の祭りで、大正区でも1975年に、地元有志による「がじゅまるの会」を中心に、沖縄出身者の交流を図る為に始められました。今年で36回目を迎える区内の一大イベントで、毎年夜遅くまで終日開催されるのですが、その時はまだ私はそんな事は何も知らずに、屋台の沖縄グルメにばかり目を奪われていました。右上写真はその時に撮ったヤギ汁屋台(後述)のオネエチャンとオッサンです。
 
   
 まず食したのは沖縄そば(ソーキそば)。ダシは鰹と昆布の薄味で私好み、麺はどちらかというとカップ麺の「どん兵衛」のそれに近い感じで、最近流行の讃岐うどんのようなモチモチ感は殆どありませんが、それが逆にダシや具の豚肉・蒲鉾・刻みネギ・紅生姜などと微妙なハーモニーを醸し出していて、癖になる美味しさでした(左上写真)。
 次は初挑戦のヤギ汁です。最初はそのネーミングに気後れして屋台の前で立ち止まって見るだけだったのが、売り子のパワーに押されてとうとう食する破目に。しかし、これも意外と薄味で結構美味しかったです(真上写真)。
 その次に買ったのは「サーターアンダーギー」という堅焼きの沖縄ドーナツ。これは以前にも一度は食べた事があるものですが、「常温でも一週間は日持ちする」との事で、こちらは職場の仲間へのお土産として購入(右上写真)。

   
 もうここら辺になると、そろそろお腹も一杯になってきましたが、この程度で切り上げたのではグルメ探訪にならないので、引き続き調査続行。会場は炎天下で私も既に汗びっしょりになり、一旦グラウンド隅にある野外席の木陰に避難。しかしここも既に満席で何ヶ所かでは宴会も始まっている様子だったので、再び屋台に戻って、今度は「さんぴん茶」に初挑戦。以前何かの漫画でこのお茶が出てきたのを思い出して飲んでみました。こちらも独特のネーミングから、「まむしドリンクみたいなモノだったら嫌だなあ」と一抹の不安を抱えながら飲んでみたら、これが爽やかなジャスミン茶でした。正に清涼の一服(左上写真)。
 次は「もずくの天ぷら」。屋台には他にも色とりどりの天ぷらが並んでいましたが、まずは一番オーソドックスそうなこれから挑戦。これも結構いける味でした(真上写真)。
 もうこれで食のリポートは一旦打ち止めにしようと思いましたが、他にもまだまだ未知の食べ物が並んでおり、誘惑には勝てずに一番まだお腹に入りそうな「ポーポ」という黒糖クレープを注文。「甘みを抑えたお菓子で余りシツコクない」との売り子の宣伝通り、こちらは「蒸しパン味のクレープ」という感じでした(右上写真)。

   
 後はもう試食と観るだけのリポートです。写真は左から右に、紅芋のスティック(試食ではなかなかいける味でした)とその他の何か(名前忘れた)、くるくる渦巻きのような変わったウインナー(ウインナーは好物なので今度食べてみよう)、豚足の焼いたの(これは流石にパス)。

第36回エイサー祭りin大正(YouTube動画)
 
 実はグルメだけでなく、エイサー踊りの写真も幾つか撮ったのですが、大半は観客席からの撮影で、これといった写真が撮れませんでした。どうにかサマになったのは、「そのひぐらし」という地元沖縄バンドを壇上近くで撮影したものたった一枚だけで、スペースの関係もあり今回は公開見送りにします。当日の祭りの様子については、上に別の方がユーチューブにアップされた動画を貼り付けておきますので、そちらを参照して下さい。

  
 ただ、今回はグルメ中心の報告になってしまいましたが、これだけは知っておいて下さい。この祭りは決して「只の田舎の盆踊り」ではないという事を。
 屋台には地元・興南高校の「夏の甲子園」優勝を祝う展示がされていましたが、そもそも沖縄の日本復帰が適うまでは、それすらままならなかったのです。なかなか出場出来ず、やっと出場出来るようになっても、外国だからという理由で甲子園の土も持ち帰れなかったり、球場の和を乱すという理由でエイサー踊りの応援も認められなかったり。そういう苦難を経ての、今回の興南優勝なのです(左上写真)。
 また会場には沖縄・普天間の米軍基地撤去を要求する県民大会の新聞記事も張り出されていましたが、これも県民にとっては単なるイデオロギーではなく、自らの生存と尊厳を賭けた闘いなのです(右上写真)。
 戦時中の沖縄戦では4人に1人が殺された上に、戦後も捨石として一方的に日本本土から切り離され、沖縄本島の2割の土地が「銃剣とブルドーザー」によって米軍基地に奪われてきました。大阪府の面積に当てはめるとちょうど大阪市と堺市を併せた分に相当します。その中で、戦闘機が授業中の小学校に墜落し多数の児童・教職員が亡くなってもパラシュートで脱出した米兵は何のお咎めもなかったり(1959年、宮森小学校事件)、といった事件が繰り返されました。米軍基地犯罪は、1995年の少女暴行事件や沖縄国際大学へのヘリ墜落事故だけではないのです。

 それに対するアメとして、長年沖縄につぎ込まれてきた基地交付金や振興予算も、実際は本土大企業の懐を潤しただけで、雇用状況や生活環境の改善には殆どなりませんでした。だから、前述の県民大会には本島集会だけでも全県人口の1割弱の9万人もの人々が集まり、今や保守系知事だけでなく自民・公明両党ですら県連レベルでは基地撤去を主張せざるを得なくなったのです。今夏の参院選でも本土では泡沫同然の社民党が県内では第一党に躍進し、元々保守地盤だった名護で市長選に続いて先の市議選でも基地撤去派が圧勝したのも、決して偶然ではありません。
 そもそも、沖縄の米軍基地は日本防衛の為にあるのではありません。アフガン・イラク・ソマリアその他どこにでも、アメリカが好き勝手に攻め込む為にあるのです。それを勝手に「北朝鮮や中国から日本を守る為」とこじつけて、沖縄にこれ以上の負担を負わせるのは、エゴ以外の何物でもありません。
 それでも米軍様に守ってもらわないと安心出来ないと言うのであれば、普天間基地を同じ県内の辺野古なぞではなく、日本の首都東京のど真ん中に移設すれば良いのです。臨海部にはバブル開発のツケで売れ残った遊休地が一杯あります。天皇一家しか住まない皇居も、あんなに広い土地は要らない筈です。でも、それでは「畏れ多い」という事で、恰も原発や産廃処分場を厄介払いするかのように、今まで米軍基地を沖縄に押し付けてきたのでしょうが。これが差別でなければ一体何なのでしょうか。
 二言目には中国の軍拡やチベット侵略を非難する右翼や御用学者が、普天間問題では中国政府と瓜二つの「支配者の論理」を沖縄に対して振りかざしながら、その矛盾にも気付いていない様は、もう滑稽を通りこして哀れですらあります。


 沖縄は、古くは薩摩藩の琉球侵略、明治以降は琉球処分によって国内植民地として扱われ、政府の同化政策によって独自の言語や文化も破壊させられてきました。それどころか、1903年に大阪で開催された内国勧業博覧会では、沖縄人・アイヌ・台湾原住民を「未開民族」扱いした展示を巡って、アイヌや台湾人との反目を巧妙に煽られ、同じ被差別者でありながら政府による同化政策の尖兵としても利用されてきました(人類館事件)。差別される側が、差別から逃れるために、逆に差別する側に回るように仕向けられたのです。これが、後の沖縄戦における日本軍による集団自決の強制に際しても、強制に抗う上でマイナスに作用したかも知れぬと思うと、同じ本土の日本人としては、もう居たたまれなくなります。
 そんな沖縄差別や政府による分断統治に抗する拠り所として、「沖縄青年の団結」「単身集団就職者の生活・権利擁護」「沖縄の自然・文化の擁護・発展」の3つのスローガンを掲げ、沖縄人(ウチナーンチュ)の誇りを取り戻そうと始められたのが、この大正区のエイサー祭りなのです。そして、アイヌ団体の代表も、かつての恩讐を乗り越えて、今や沖縄と共にエイサー祭りに参加しているのです。
 米国には何も言えずに、その鬱憤を他のアジア諸国や途上国の人々にぶつけるしか能の無い、哀れな日本本土人(ヤマトーンチュ)の何と多い事か。それはまた、大企業の搾取や無法には何も言えずに、その矛盾を非正規労働者にしわ寄せし、ホームレスや生活保護受給者などの社会的弱者を貶める事でしか鬱憤を晴らすしか能のない、多くの社畜サラリーマンの姿ともダブる。しかし、それに抗い日々力を蓄え次の未来を準備しつつある人々も、この日本には確実に存在するのだ。当日は、その事に改めて気付かされ、かつ勇気づけられた一日でもありました。

(追記:沖縄史略年表)

605年(平安時代) 「琉球」が初めて中国史に現れる
14世紀頃(鎌倉時代) グスク時代
1429年(室町時代) 第一尚氏王の琉球統一
1470年( 〃  ) 第ニ尚氏王の琉球統一(三山統一)
1609年(江戸時代) 薩摩藩の琉球侵略
1871年(明治時代) 廃藩置県→やがて琉球王国滅亡へ(1879年、琉球処分)
1941年(昭和時代) 太平洋戦争開戦→米軍の沖縄上陸、日本の敗戦(1945年)。
1945年( 〃  ) 米軍による沖縄・奄美統治が始まる。
1952年 対日講和条約・日米安保条約の発効、琉球政府発足。沖縄の米軍統治が確定。 
1953年 奄美諸島の日本復帰。沖縄は引き続き米軍統治下に置かれる。
1956年 米議会「プライス勧告」で米軍占領を容認。軍用地接収反対の「島ぐるみ闘争」高揚。左派の瀬長亀次郎、那覇市長に当選(後に米軍の圧力により辞任に追い込まれる)。
1959年 石川市(現うるま市)の宮森小学校に米軍戦闘機墜落(死者17名・負傷者121名)。
1960年 沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)結成、復帰運動がいよいよ本格化。
1962年 沖縄立法院(今の県議会に相当)、国連の「植民地解放宣言」を引用しての日本復帰要望決議(2.1決議)を採択。
1964年 トンキン湾事件で北ベトナム空爆開始。沖縄・嘉手納基地からB52が連日飛び立つも、ベトナム戦争は却って泥沼化。世界的な反戦運動の高揚を招く(べ平連の運動など)。
1968年 沖縄県民、琉球政府主席の公選制を勝ち取る。主席選挙で復帰協の屋良朝苗氏が当選。この頃には米軍は沖縄の日本復帰を認めざるを得ない所まで追い詰められていた。
1970年 コザ暴動。ゴザ市(現・沖縄市)で米兵によるひき逃げ事件処理を機に米軍車両が次々と焼討ちされる。
1972年 沖縄の日本復帰、但し基地も核兵器もそのまま居座り。県民による抗議の返還協定粉砕ゼネストが行われる。
1975年 通貨交換、ドルから円へ。
1978年 沖縄国際海洋博が開催される。
(参考文献)
・沖縄県HP>沖縄のすがた/歴史/年表
 http://www.pref.okinawa.jp/kodomo/sugata/a5_01h.html  
・中野好夫・新崎盛暉著「沖縄戦後史」(岩波新書)
コメント (3)
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