12月の見舞いの時は、飛行機の航空券の手配が付かず、特急・新幹線を乗り継いで、14時間掛かりましたが、
今回は千歳空港~神戸空港までの直行便に初搭乗です。さすが早いですね。(当たり前じゃ!)
神戸空港からJR三宮駅までは、「ポートライナー」で18分。そこから山陽本線在来線で約40分で姫路です。
4月から国宝にして世界遺産の姫路城が、大改修に取り掛かるので、しばらくあの美しいお城も見られなくなります。
通夜は19時から、「故人の遺志により、御香料の儀は固くご辞退申し上げます」の張り紙が張ってありました。
故人の同僚と言いますか、若いソーシャルワーカーさんとも話しをしましたが、その話からも故人が
厚く信頼され、尊敬されてた様子が判ります。病院の仲間が偲ぶ言葉を作成しておりました。歌が大好きだった故人が、
生前に歌った歌がCDで会場に流れていましたね。ギターも歌も玄人はだしでしたからね…。
お通夜が終わり、私と千葉からやって来た友人と一緒に、ご遺族や付き合いの深かったお友達と故人の大学時代の話などを
して談笑していましたが、お姉さんから、明日友人代表として、弔辞を読んでもらえないかとのお願い。
弔辞って、あの巻物みたいな紙に筆で達筆な文字で書かれているあれですよ。
字の汚い事では人語に落ちないと自他共に認める、私には極めてキツイお願いでありましたが、私の亡くなった親父の弔辞も3人くらい読んでいただいたが、大学の同級生の弔辞が一番感動した事を思い出し、不安を抱えながらお引き受けしました。
ホテルで友人の部屋で、ひとしきり同窓名簿を見ながら、昔の思い出や現在の様子などを語っている内に、アッと言う間に午前1時半。
告別式は14時からなので、早起きして弔辞を書こうと思ったのですが、疲れているはずなのに眠れません。
初弔辞のプレッシャーか、結婚式の友人代表のスピーチは3回くらい経験がありますが、それとは訳が違い過ぎますからね。
結局、そのまま眠れず、午前2時半から何回も推敲して、書き上がったらもう5時を回ってました。
弔辞は故人の勤めていた病院の院長、私、地元の友人の方の順でした。まあ自己採点は点です。
少し声が上擦って早口になった事、余り悲しみを助長しないよう砕けた文章にしたつもりが、度が過ぎた事などが
減点の理由です。
まあ大学時代の故人を知らない方ばかりですから、こう言う大学生活を送っていたのかとの紹介にはなったのではないかな?
ご遺族や親戚以外が、あれだけ号泣する葬儀は不慮の事故死を除いては、あまり記憶がありません。
58歳の現役と言う理由もあるでしょうが、人柄と仕事に懸ける真摯な態度が、あれだけの涙を誘ったのだと思います。
(少し褒めすぎかな?)帰りは東京まで新幹線で行き、東京某区で課長職の女友達
のところに寄って帰りましたが、故人にメールしたら、返って来ましたよ。
※PS ブログの表題の「亡くして、無くて、泣きながら」は昭和30年代に、私の父が、自分の弟の妻の葬儀に、
北海道から名古屋まで、初めて飛行機に乗った顛末記を随筆にした時のタイトルをそのまま
パクリました。
今回は千歳空港~神戸空港までの直行便に初搭乗です。さすが早いですね。(当たり前じゃ!)
神戸空港からJR三宮駅までは、「ポートライナー」で18分。そこから山陽本線在来線で約40分で姫路です。
4月から国宝にして世界遺産の姫路城が、大改修に取り掛かるので、しばらくあの美しいお城も見られなくなります。
通夜は19時から、「故人の遺志により、御香料の儀は固くご辞退申し上げます」の張り紙が張ってありました。
故人の同僚と言いますか、若いソーシャルワーカーさんとも話しをしましたが、その話からも故人が
厚く信頼され、尊敬されてた様子が判ります。病院の仲間が偲ぶ言葉を作成しておりました。歌が大好きだった故人が、
生前に歌った歌がCDで会場に流れていましたね。ギターも歌も玄人はだしでしたからね…。
お通夜が終わり、私と千葉からやって来た友人と一緒に、ご遺族や付き合いの深かったお友達と故人の大学時代の話などを
して談笑していましたが、お姉さんから、明日友人代表として、弔辞を読んでもらえないかとのお願い。
弔辞って、あの巻物みたいな紙に筆で達筆な文字で書かれているあれですよ。
字の汚い事では人語に落ちないと自他共に認める、私には極めてキツイお願いでありましたが、私の亡くなった親父の弔辞も3人くらい読んでいただいたが、大学の同級生の弔辞が一番感動した事を思い出し、不安を抱えながらお引き受けしました。
ホテルで友人の部屋で、ひとしきり同窓名簿を見ながら、昔の思い出や現在の様子などを語っている内に、アッと言う間に午前1時半。
告別式は14時からなので、早起きして弔辞を書こうと思ったのですが、疲れているはずなのに眠れません。
初弔辞のプレッシャーか、結婚式の友人代表のスピーチは3回くらい経験がありますが、それとは訳が違い過ぎますからね。
結局、そのまま眠れず、午前2時半から何回も推敲して、書き上がったらもう5時を回ってました。
弔辞は故人の勤めていた病院の院長、私、地元の友人の方の順でした。まあ自己採点は点です。
少し声が上擦って早口になった事、余り悲しみを助長しないよう砕けた文章にしたつもりが、度が過ぎた事などが
減点の理由です。
まあ大学時代の故人を知らない方ばかりですから、こう言う大学生活を送っていたのかとの紹介にはなったのではないかな?
ご遺族や親戚以外が、あれだけ号泣する葬儀は不慮の事故死を除いては、あまり記憶がありません。
58歳の現役と言う理由もあるでしょうが、人柄と仕事に懸ける真摯な態度が、あれだけの涙を誘ったのだと思います。
(少し褒めすぎかな?)帰りは東京まで新幹線で行き、東京某区で課長職の女友達
のところに寄って帰りましたが、故人にメールしたら、返って来ましたよ。
※PS ブログの表題の「亡くして、無くて、泣きながら」は昭和30年代に、私の父が、自分の弟の妻の葬儀に、
北海道から名古屋まで、初めて飛行機に乗った顛末記を随筆にした時のタイトルをそのまま
パクリました。