不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

東北アルパインスキー日誌 ブログ

東北南部の山での山スキー、山歩き、山釣りなどと共に、田舎暮らしなどの話を交えながら綴っています。

黒伏山南壁 中央ルンゼ初登攀争い  No.3

2007年09月28日 | クライミング

先日、偶然にも出てきた黒伏山の登攀記録を転載させて頂きます。このルートの初登攀については当時を物語る方が少なく、その他の記録もあまり残っていない。S氏によれば、当時山形大学山岳部パーティーなども先行して核心部に肉薄していた様だが、核心部を攻略したと言う様子は伺えなかった様です。現在の中央ルンゼの核心部を始めて突破し、初めて山頂のピナクルに達したのはこのパーティーではないか思われます。

この記録のわずか1週間後にS氏がこのルートを完登したが、ピナクルに立ってみると空き缶に両氏の名前が入った紙切れが有り、まさか既にトレースされているとは思いもよらずがっかりした様です。この文面からすると少し強引に登ったような感もありますが、40年以上も前の当時はフリーと人工の区別は有ったにせよ、「フリークライミング」と言う概念は存在せず、手段を論議する以前に情熱がそれをうわまったと言えるでしょう。この結果、既に三原ルートが存在したとは言え、この南壁の実質上の初登攀ともいえると思います。

なお、このル初登攀者はルート名を「鈎状クーロアール」と命名し、確かに自分が現役の頃にはこの名称が使われていた。後で改名された「中央ルンゼ」は確かに解りやすい名称だが、この「鉤状クーロアール」こそもっと尊重されるべきルート名だったと思います。

「山想 六十一号」より転載させて頂きました。、

「黒伏山岩壁鉤状クーロアール登攀」

昭和41年(1966年)9月16~18日 個人山行

高橋二義 武田捷

私が黒伏山に始めて取り付いたのは昨年(S40年10月)で、このときは図?の三人テラスまでしか登る事は出来なかった。(山想60号22ページ参照)しかし、そのとき以来、この大きな岩壁は頭の中から離れた事は無かった。黒伏山岩壁を完登したい。これは私ばかりではなく、三年前朝日岳で遭難死した故二瓶昇氏とザイルを組んで、取り付き点より三人テラスまでの直登ルートを開拓した高橋の希望でもあった。そして黒伏の岩と斗い完登は果たせなかったが、その核心部である中間のフェースと上部の垂壁スラブを落とす事が出来た。以下はその時の記録である。

 9月16日 晴れ

黒滝手前の橋の所から小型トラックに便乗しこれで1時間稼げた。昼食を取り、取り付き点に向かう。このあたりは今伐採作業が行われており、チェーンソーの音がひっきりなしに聞こえてくる。この伐採地より壁を見上げて写真を撮る。改めて壁の大きさに感心する。
 1P目はトップ高橋で登攀開始。1より小さなリッジに取り付くとすぐフェースになり、残置ハーケンを頼りに直上すると小さいハングとなり、アブミ一個をそこに置いて行ってもらう。昨年だいぶ苦労させられた所だ。ハングを越した所よりジェードルとなり、レイバックで二米ほど登り2のスタンスに着く。ハーケンや食料の入ったザックは重く呼吸が荒くなる。
 2P目は2よりフェースクライミングとなり、ここはフリーで登る。途中つま先が入るような小さなフットホールドに足を掛け、ブッシュをつかんで静かに立ち上がる所があるが、このピッチでは一番嫌な所である。ここを越して5m程登ると、三原ルートと合いする所が三人テラス3.である。
 時間はまだ少しあるが、後はビバークプラッツが無いのでここでビバークする事にする。3人が腰を下ろす事が出来る程の広さである。ハーケンを4本打ち体を確保する。セーターを着たりヤッケを被ったりしてやっとビバーク体制に入る。美しい星空だ。面白山、蔵王産山、寒風山、白ヒゲ山、仙台カゴなどが黒いシルエットとなって浮かび出てくる。

【タイム】 仙台7:30 ~原宿 9:15~黒滝下10:20~コース入り口10:50~昼食11:00~11:30~取り付き点13:30~三人テラウ16:00~ビバーク体制完了19:00

9月17日 高曇り 午後時々通り雨

昨夜は2時間毎に目を覚ます。腰掛けたままで寝るのはそうらくなものではない。明け方はだいぶ冷える。北面白山と蔵王にレンズ雲が発生しているが、今日一日降らなければ完登は出来そうだ。ビスケットとソーセージ、それにチーズで朝食を済ませて登攀開始。ここから二人とも未知のルートである。
5よりフェースを登りだす。残置ハーケンがルートを指示してくれる。トップの高橋に「ザイルいっぱい」と声をかけると、あと2m程でテラスが有るというのでビレーを外して登りだす。二人共にビレー無しで登りだすし、小さな草付きテラス4で一緒になる。上はハングだで残置ハーケンが4本ある。ここでザックを下ろし、アブミ2個を使ってこのハングを越すと小さなスタンスがある。?ここまでザックを引き上げる。

ここから傾斜が緩くなり上はスラブになる。5より?まではツルベ式に登る。残置ハーケンが1本有り、7~8は見たところ易しそうだが、取り付いてみると意外に悪く、逆層なので登りにくい。この付近で高橋が頭部を赤く着色したカシ木のクサビを拾う。アンダーホールドでトラバースぎみに登ると、まだ新しいシャモニー製ハーケンが1本入っている8。ここからいよいよこのルートの核心部である。

8より外傾バンドが有り、これにルートを求める。残置ハーケンが2本有り1本を回収する。またここに非常に古い黒く錆びたカラビナが一個残置されてあったので、これも記念に回収してくる。このバンドの切れたところに残置ハーケンが一本入っており、ここから先はまだ人間の手の触れていない処女岩壁になる。見上げるとこれではちょっと取り付く気にはなれない。しかし、我々は登り始める。

上が垂壁となり、トップで登るのは高橋のバランスのよさが物を言う。だがバランスの良さだけではどうする事も出来なくなり、ハーケンを打ち始める。完全な人工登攀となり、ハーケンの連打と吊り上げである。「登っていい」と声がかかって登っていってみると、スタンスが有ると思っていたらアブミに乗って確保している。まったく悪い所だ9.。このピッチでハーケン8本を使用し、うち1本を回収する。

9より岩が大きくなり、しかも垂壁。その上ハーケンが入らず、高橋がきわどいバランスで登って行くがだいぶ苦しいようだ。しかしハーケンをやっと一本打ち込みほっとした時、右の方の壁(赤いハングの右の方と思う)からものすごい音を残して落石があった。我々の所まで地鳴りのような振動を感じる。時計を見たら16:00だった。下では伐採作業をしている人達からやたらとコールが掛かる。心配してくれているのだろう。さらに登ってジッヘルポイント10を見つける。しばらくぶりでまともに立っていられる場所である。このピッチでハーケン5本を使用。

10より一ピッチがこのルート登攀のカギと思われる垂直のスラブがある所なのだ。いくら良く見てもリスなど無い。そこで埋め込みボルトを取り出す。このピッチ下5mが2段の垂壁、その上2mがハング、そして3mの垂直スラブと続いている。埋め込みボルトを1本打ち込んで左に2mトラバースしてハーケンを打ち、このスラブを突破する。ボルトに大きな手拭を付けて記念に残す。ラストの武田が登る時にはもう暗くなり、ヘッドライトをつけて行動する。二人が一緒になったのは19:00だった。もう行動するのは危険なので、ここでビバークとする11.。 

ハーケンの効く様なリスが無いので埋め込みボルトを一本打ち、これに二人の体を吊り、あまり効かないハーケン3本にザイルをクモの巣のように張りめぐらし、アブミに乗ってクモの巣の中に入った。苦しいビバークだった。苦しいのは我慢できるが、雨だけは降らないでくれと、それだけを祈って寝る。

【タイム】 登攀開始6:55~ビバーク地19:30~ビバーク体制完了22:00

9月18日 終日雨
2時頃より雨が降り出したが4時に朝食。あまり寒いのでメタ1個を焚く。この雨の中の登攀は危険だが、ここまで登ってしまった現在、降りるより登る方がむしろ安全と意見が一致する。登攀準備をしている時、武田がうめ込みボルト1本とジャンピング一本の入っているビニール袋を落としてしまう。こんな時のボルト1本は貴重なものだ。疲労の為注意力が鈍ってしまったのだろうか。
11より12まではフェースのコンタクトラインを登り、12より右側のブッシュに入る。ハーケン2本を使用。しかし、このブッシュの中でも傾斜がきつく、コンティニュアスで登るに苦労した。やっと稜線に出て登攀終了。稜線どうしに左側のピナクルに登り、堅い握手を交わす事が出来た。

下りは疲れている為アップザイレンで降りるのは止め、て、、裏側のブッシュを下る事にする。伐採用の飯場にたどり着く頃にはもう足が変になり、何度ひっくり返ったことか解らない。飯場で3日ぶりに温かい味噌汁とご飯をご馳走になり、やっと一息つくことが出来た。この飯場より入を通り野川に出て、野川からバスで原宿まで行く。パンツまで濡れてしまったので下着を買い、メタを焚いてズボンを乾かす。仙台行きのバスが来た。

【タイム】 登攀開始7:00~左側ピナクル10:30~伐採飯場13:30~14:30~入15:30~野川16:15~31原宿16:41~18:06~仙台19:31.

【付記】

ヘ締め手の計画ではビバーク1回で登るつもりだったが、サポートなしの登攀だったので重量がかさみ、ザックの吊り上げなどで時間が意外とかかった。それに途中からの雨の為、最後の2ピッチをブッシュ帯に逃げねばならなかったのは残念だ。しかし、例え天候が良かったとしても、我々の残り少なくなった装備(ハーケンなど)でこの上のピッチをこなせたかどうかは疑問である。終始トップで奮闘した高橋には敬意を表すると共に、二人で過ごした苦しい、しかも充実感溢れた、虚偽や偽装や虚栄などの入り込む隙間など無い、厳しい自然の中の3日間は、我々の美しい思い出となって生き続ける事だろう。なお、前号では「正面クーロアール」と呼称したが、「鈎状」に改めた。その方がこの岩場の形状からいって適切で有ろう。

【登攀用具】

ナイロンザイル9mm 編み  30m 黄色
       〃          30m 赤  ドッペルで使用
       〃 8mm 撚り  30m 赤  ザック吊り上げ用
ハーケン    計 60本 使用 36本 (ただし確保用は含まず)
カラビナ       24個 (内ゼルプスト用4個)
埋めこみボルト   3本  (使用 2本)
ジャンピング     1式
アブミ     2段  5個
 〃      3段  1個
ハンマー   2丁
ヘルメット   2個   etc

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒伏山南壁 中央ルンゼ 初登攀争い  No.2

2007年09月22日 | クライミング

先日の月曜日、休日出勤ですっかり予定が狂ってしまい、あまりにも午後からの暇をもてあましてしまい、ついつい久しぶりにS氏の携帯を鳴らしてみたら、夕方自宅に出頭せよとのお仰せ。その用件とは、日本山岳会の会報「山岳」を処分するので21冊を持って帰れというもの。もちろん断る理由などは無く、有りがたく自分でもあまり持っていない蔵書の一つにに加えさせてもらった。S氏がどういう訳で日本山岳会宮城県支部に在籍していたのか知らないが、会報の「山岳」には興味が有ったのでありがたく頂だいした。

今はまったく山を離れているS氏だが、飯豊連峰、黒伏山、利尻山の話になるとそのボルテージは高まってくる。現役山屋のような輝く眼差しからは熱い思いが伝わってくる様で、中途半端に終わってしまった自分とはまるで別人の様だった。40年以上も前のアルパインクライミング不毛の東北で、元祖山フリーターを自認する様な経歴を持ち、山が全てという極道の様な世界にいた方だが、当時は先鋭的な首都圏の山屋との交流など皆無のようで、むしろその事が創造的な登山を促したのかも知れない。

当日は中央ルンゼの話を聞きたくて伺った訳だが、意外な収穫があって面白かった。S氏の奥さんが名門山岳会の仙台山想会に在籍していた事は知っていたが、奥さんとの話のやり取りの中で、中央ルンゼの登攀記録らしい会報を持っていると言う、まったく意外な話が飛び出した。S氏もダンナのはずがこの話は初めての様子で、探し出してきた「山想61号」(昭和41年10月20日刊)を開いて共に驚いてしまった。この古びた会報には「黒伏山岩壁鈎状クーロアール登攀」、昭和41年9月16~18日(個人山行)という記録が載っていた。

このパーティーは当時仙台山想会の高橋二義氏、武田捷氏の2名。この両氏が実質上の初登攀者だとは聞いていたが、これこそ黒伏山南壁中央ルンゼの初登攀記録だった。まさか記録が残っているとは思わなかったが、中央ルンゼは我々東北のクライマーには思いで深いルートだけに、、その開拓期の様子が明らかになる事は嬉しい。

続く

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雪庇の崩落について

2007年09月13日 | 雪崩

日ごろ遭難事故などにはあまり縁の無いな自分だが、2007年7月26日、名古屋高裁金沢支部において、大日岳遭難事故第三回目の和解協議が行われ、原告の請求を全て 国が認めるかたちでの和解が成立し、山スキーヤーとしては大変興味深いものが有った。

 この遭難事故は、2000年3月5日 北アルプス大日岳で文部省登山研修所の研修登山に参加したメンバーが雪庇上で休憩中に雪庇が崩落し、11名が雪崩にまきこまれ、内藤三恭司さんと溝上国秀さんが死亡した。翌年国は、雪庇の崩落は予見不可能で、引率講師に過失はなかったという調査報告書を発表し、遺族に謝罪すらしなかったことから、遺族は国家賠償法に基づき、2002年3月国に損害賠償を求める裁判を起こした。

    

       文部省遭難事故報告書より

この裁判で大きな論点の一つは、「雪庇の形成及び崩落の予見可能性」ついてであり、「雪庇回避のための想定及び判断」が適切であったかどうかである。事故の原因は山稜を雪庇の先端から10mと判断した事に有り、実際の山稜はコースから27mも風上側(東)にあった事が判明し、このコースを選択した講師の判断ミスの是非が問われた。

裁判で、国側は雪庇の大きさが40メートルもあり、例年をはるかに超える大きさだった事によりルート選定を誤ったとし、雪庇の崩落は予見できなかったとして過失を認めない主張を展開した。雪庇を避けるためには山稜を特定して山稜付近を登高すべきだが、雪庇を避けるためのルート選定方法として、通常は雪庇先端から10数メートルの位置を歩けば安全なのである。しかし、この年は雪庇がかってないほど大きかったために雪庇をさけられず、予見不可能な大きな雪庇ができていたと言う、異常気象が原因での不可抗力だと主張をした。
2006年4月26日、富山地方裁判所の判決が下されたが、その内容は、講師は大日岳山頂の雪庇の大きさを10m程度と判断した上で、この雪庇を避けるために見かけの稜線から十数メートル程度の距離を取った。しかし、大日岳の雪庇の大きさを25m前後と予見する事は可能であり、見かけの稜線上から少なくとも25m程の距離をとって行動及び休憩の場所を選定すべきてあり、講師らの選定基準には過失があったとされた。

 

A.平成19年5月4日 飯豊連峰 門内岳~北股岳



B.平成16年3月20日 朝日連峰 小朝日岳~熊越え

この講師は日本山岳会、1991年ナムチェバルワ峰7782m日中合同登山隊の初登頂者で、日本でも有数の登攀ガイドとして高名な方であり、過去14回ほど、大日岳でこの文部省主催の講習会を行っている。しかし、大日岳の雪庇は他にあまり例を見ないスケール言われているが、この山域を知り尽くした佐伯山岳ガイドによれば、40m位の雪庇は有り得るとのコメントが有ったようです。

自分は大日岳には登った事が有りませんが、この話を聞いて思ったのが飯豊と朝日の雪庇でした。同じ日本海側に面する日本でも有数の豪雪山域と言う共通点で、この桁外れの雪庇の大きさを想像してみた。A.は5月の飯豊連峰の主稜線上の雪庇ですが、この時期でも雪庇の張り出しは20mを越え、おそらく3月末頃の時期には25mくらいには成長しているように思われます。3月頃には視界が良好でも実際の山稜の認識は難しく、どれほどの大きさなのか判断するのは困難でしょう。今年は雪不足と言われながらも、3月後半からの大雪と強風で、雪庇は大きく成長したものと思われます。

B.は3月の朝日連峰の熊越え通過時の写真(先行者は雪庇の上に乗っているの図)ですが、風下側に大きく雪庇が張り出し、最低コルではやはり25~30m程は有ったと思われます。この様な事例から考えると、大日岳の雪庇だけが予見不可能な雪庇の規模とは言えず、日本海側の北アルプス・東北などの山では想定すべきであるとも言えます。つまり表向きのデータが無いだけで、意外と地元だけに知られている可能性が有ります。

雪庇は冬山登山者・山スキーヤーにとって避けて通れないケースが多く、自分も冬山初心者の頃は2度雪庇の踏み抜きを経験している。3月の蔵王~二口山塊スキー縦走の時、北雁戸山と仙台神室付近で2日連続の失態をやらかした。幸い雪崩を誘発する事も無く10~20m程の滑落で済んだが、結果これが良い薬となったようでその後は経験が無い。やはり経験が物を言う登山の中でも、最も典型的な学習効果ということが言えるだろう。

雪庇の歩き方については登山技術書には載っていると思うが、実際には各登山者によってその判断は様々で、必ずしも安全な歩き方とは言えない現場を良く見る。もちろん時期、天候、雪質によって歩き方は変わってくるが、降雪中はもちろんの事視界良好の時でさえ、その判断力は実戦の中で学ばないと意外と難しい。山岳会等での山行ならば先輩方から学ぶ事も多いが、未組織登山者の場合にはそこのところがネックとなる。事実、HP上の写真を見ると冬山の経験が長い人と思われる人でも、意外と雪庇の先端から2~3mほどの所を歩いていたり、実際に崩落した現場写真を平然と載せていたりする。雪庇の基本構造・成型の過程・スケールなどの知識のない方が少なくないと思われます。

考えてみると雪崩に関しては研究が進み、体系的な雪崩講習会などが開催されて多くの参加者を集めているが、雪庇については基本的な研究とか、崩落のメカニズムについての解明は殆ど成されていない。殆どが経験とか憶測に頼る状況で、登山者・山スキーヤーの関心も雪崩程には無い。確かに緩やかな山容の東北の山では、雪庇を踏み抜いても大事故に繋がる事は少い。しかし雪崩以上に冬山でのルートミスによる遭難が多いのと同様、意外と雪庇の踏み抜きは頻発していると思われるので決して侮ってはならない。

東北地方の山で雪庇の崩壊で事故が起きた例はあまり聞かないが、最も危険なケースは下降の際視界不良で雪庇の先端に近づいて事故になるケースです。又は、視界不良の時の雪庇が風向きにより狭い尾根の左右に発達している場合は特に危険です。特に有名なのが奥穂岳から新穂高温泉に下る西尾根?で、雪庇を踏み抜いて滝谷側に滑落して日本でのトップクライマーと呼ばれた人の何人かは帰らぬ人となっています。

あと、この裁判で気になったことがもう一つ。それは、この訴訟を勝ち取る為に原告団は30万人に及ぶ署名を集めたそうですが、個人的には数の論理で勝利を勝ち取ると言う方法に少し違和感を感じます。大切なご家族を亡くされた遺族の方々にはお悔やみを申し上げます。署名活動は社会一般に認められた権利と言えます。

しかし、この山岳事故の訴訟問題の場合、冬季で一般人の入山が困難な山岳地帯であり、限られた人しか事故を検証する事が出来ず、しかも雪庇は日々変化して事後の確実な物証を集める事は困難と思われます。しかも、裁判に関しては冬山登山の専門的な知識・雪崩や雪庇の知識が不可欠で、多くの冬山経験者や学術専門家の力を必要とします。もっと条件を改善して欲しいと言う要望なら解りますが、起きてしまった過去の事実について数の力に頼ることは筋が違う様な気がしますが・・・・。

※ 関心のある方は次のサイトへどうぞ。

「大日岳遭難事故を考える」

http://www.geocities.jp/sa9zi2005

「北アルプス大日岳遭難事故調査報告書」 文部省

http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/13/02/houkoku/index.htm

「大日岳遭難訴訟裁判記録」 

http://sports.geocities.jp/tadophoto/

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする