東北アルパインスキー日誌 ブログ

東北南部の山での山スキー、山歩き、山釣りなどと共に、田舎暮らしなどの話を交えながら綴っています。

岳人8月号 沢登り特集

2006年07月26日 | 沢登り

最近の山渓と岳人を見比べてみると、岳人編集部の奮闘に軍配が上がる。最近になって岳人の編集長が替わったようだが、これだけでこんなにも読み応えが違ってくるものかと感心してしまう。山渓に対して岳人の発行部数がどれだけかは知らないが、毎月ワンパターン記事の山渓に対し、毎回ジャンルを替え、また違った視点から編集されている岳人は内容が濃い。

また、毎回同じような顔ぶれの執筆者とは異なり、知られざる影の実力者、殆ど情報が希薄な地方の山岳会、山屋さんの最新情報、記録など、意欲的な姿勢に共感を感じる。毎回1時間半の立ち読みで済ましている私は、あまり偉そうなことは言えませんが・・・。

その中で瀬畑雄三氏の特集が組まれていて興味深かった。山好きの方でこの方の名をご存知の方は少ないかも知れませんが、渓流釣り雑誌等には良く登場する方で、釣り関係者の間では特に著明で、いわば源流釣り関係者の間ではカリスマ的な人。この方は年齢66歳にしていまだ現役の釣り氏で、過去50年程に渡って全国の源流を歩き廻った、渓流釣り界の生き証人でもある。つまり当時山菜取りとかマタギしか入渓したことない沢、あるいは人跡未踏の源流などを、最初に歩いた沢歩きのパイオニアなのだ。

私はかつて宇都宮にいた時、地元の渓流釣りクラブに4年間在籍させてもらったが、瀬畑氏はこの会の創設者でも有った。幸いにして早出川で2回同行させて頂き、シーズンオフには茸取り&宴会で度々お会いしていた。この方今でも源流に入るとロープを引きながらトップで激流の釜に飛び込み、滝も先頭に立って乗り越えてゆく。テンカラ釣りでは古来の日光テンカラを今の様式に発展させ、卓越した釣りの技術はもちろんの事、経験から身に着けた奥深い渓、魚、山菜、茸の深い知識、実にシンプルで合理的な生活技術など、教わることは多岐に渡って素晴らしい。

例えば遡行スタイル。トレードマークの笠に修行僧のような様相、白いあご髭を蓄え、一目見てその人とわかる風貌。登攀用具のたぐいは殆ど持たず、腰には自転車のゴムチューブを巻き、足元は鮎釣り用の渓流足袋。懸垂下降は片手で操作できる独特の肩がらみ方式で、今時常識のATS、エイトカンそしてハンマー、ハーケンさえ持ち合わせていない。

生活スタイルといえば、コンロや燃料は一切持たず、飯盒を使って全て焚き木で済ませ、食料は小麦粉、生米、醤油、味噌、テンプラ油などの最小限度の調味料等のみ。つまり魚、山菜、茸などが全てのご馳走でありツマミでもある。

例えばビバークに着くと担いできたブルーシート(3.6m×5.4m)でコの字型の立派な家を作り、平らな石の上で釣竿を麺棒代わりに小麦粉でうどんを打ち、岩魚のガラで作った麺つゆで頂く。岩魚、山菜料理も多種多様なことは勿論、翌日は朝食で残ったご飯を酢飯にして持参し、昼は釣った岩魚で豪華な握り寿司を握って振舞う。ちなみに小麦粉1.0kgあれば一人で3~4日位過ごせると言う。実際ザックは驚くほど小さく、これは山行日数が長くなってもあまり大きさは変わらないそうだ。このスタイルはおそらく4~50年前と殆ど替わることは無く、渓の大自然を知り尽くした瀬畑氏でしかなしえない、独特の登山スタイルであり人生観そのものなのだろう。

この方は渓流釣り氏と思われそうだが、実は険相で知られる早出川、黒部の北俣川、または会津山塊など、開拓期には稜線まで詰めてとなりの沢を下り、また次の沢を上り詰めるというスタイルをとっていた。数多くの山越えルートを開拓し、今でも多くの釣り氏、沢屋が利用している。つまり釣り氏でありまた卓越した遡行者でもあった。今でも同行メンバー釣り氏が殆どだが、日本を代表する沢登りの権威の方とも広く面識が有り、沢屋関係者からも認知されている特異な方だ。

瀬畑氏の話を聞いているだけでその生き方に引き込まれて行き、素晴らしい別世界を共に旅している様だ。山登りでは辛いことも少なくないが、自分とは違った多くの人との出合が楽しいし素晴らしい。中には素晴らしい人格、人生観を持った方と出会うことが有り、自分の人生にも影響を受ける事もある。抜きん出た実力の方と出会うのは素晴らしいし、自分も少しだけでも近づきたいという気が起きてくる。

この方は初心者でも気軽に同行を共にする気さくな方で、日本全国には数多くの愛弟子が存在し、多くの人から尊敬され親しまれている。最近はすっかりご無沙汰しているが、頂いた自作の3本撚りのテンカララインは宝にして持っている。ただ、私のレベルでは6.0m(普通は3.6~4.5m)のラインで正確に飛ばす事など出来ず、息子さんから頂いた4.5mのラインを大切に使っている。

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ヒマなときの読書

2006年07月19日 | ヒマラヤ
              アンナプルナサウス C1 1975年9月

最近の長雨の日々にはうんざりですが、山からもすっかり遠ざかりウダウダした平凡な暮らしを送っています。試しに体重計に乗ってみるとやはり1.5kgのオーバーで、中性脂肪が日に日に体にまとわり付くような気分で憂鬱です。

インターネットで色々やっていると本を読む機会が減ってしまい、最近は本屋で山の本を買い求めることなどすっかり無くなった。本屋さんに寄っても「立ち読み歓迎」を良いことに、山の雑誌は立ち読みにがぎるとばかりでヒマ潰しの日々でした。もともと立ち読みには私の得意分野。ちなみにかつて東京での某スポーツ用品メーカーの営業マン時代、サボりにサボって新宿の紀伊国屋書店で、山の単行本を3度ほど立ち読みで「完読?」した実績が有ります。

最近およそ15年ぶりに買い求めた本が有る。「エベレストから百名山へ」重廣恒夫著(光文社2003年)。この重廣恒夫氏とは、ヒマラヤ登山に関心のある方であれば誰でもご存知の人で、日本山岳会を中心とした数多くのヒマラヤ登山隊を率い、多くの8000m峰のバリエーションルートの初登攀を成し遂げた方。しかも自らエベレスト、K2、カンチェンジェンガを初めとする困難なルートを完登した、世界的にもトップのクライマーでもある方。

この方はカリスマ的存在の小西政継氏とか、国民栄世賞の植村直巳氏とは異なり、華々しくマスコミに登場する事は無く一般的にはあまり知られてい無いが、日本のヒマラヤクライミングのレベルを世界トップレベルに押し上げた、日本山岳界の素晴らしい功労者として知られている。

この本の内容は登山隊の隊長としての高度かつ困難な責務と、自信がクライマーとしての死線を彷徨うような過酷なクライミング、そしてまったく意外な日本百名山へと大きく舵を切って行く過程が興味深い。特にエベレスト北壁初登攀での臨場感ある記録は素晴らしく、本人にとっても実に考え深い登山だったと思う。あまり飾り立てた文面でもなく、率直ながら困難を極める山登りの中から、山の楽しみ、山登りの醍醐味を見事に伝える本に思える。山が人生や夢と等価であった時代の面影が本書から感じられる。今まであまり伝えられる事の無い、知られざる壮絶な物語が描かれている。

この本は実に懐かしくもまた、時代の変遷を強く感じさせる現実でもある。かつての田舎山屋の私達でも、レベルとスケールの違いは途方も無い落差があったが、少なくても気持ちだけは同じで似たような目的意思を共有しながら登っていた。いわゆるヒマラヤ至上主義で、山はもちろんの事、実社会でも山を中心に全てが廻っており、仕事を取るか山を取るかという極道的な世界。仕事を取った良識のある人間は次第に戦列から離れていき、今思えば家族、会社の方には多大な迷惑をかけっ放しだった。

しかしこの方は素晴らしいサラリーマン人生を送っている方で、オニツカ(現アシックス)に勤務されながら、17隊もの数に上るヒマラヤ登山隊に参加している。しかもその個人負担金の多くをを会社からもらっているという実に羨ましい方。通常この世界では考えられない優遇で、よほど仕事が出来てで会社の評価も高く、しかも人望があってまた上司に恵まれた方なのだろう。ただそれだけではなく直接社長に直訴する位の実績と度胸があったからではないか。私もかつて一度だけは会社に目をつぶてもらった事はあったが、二度目となると即退場処分が目に見えていた。しかもこの方日本百名山を123日で完登するに当たり、会社にアウトドア事業部キャンペーンの一環として企画書を持ち込み、結局会社の全面バックアップの末達成してしまう。私から見れば理由はどうあれ、自分自信が登りたかったから登った様に見えるのだが。

こういう事ををいまさら考えてみると、山登りでも仕事でも結局最後まで諦めずやり通した人のみ栄冠が輝くという事実で、途中で弱気になったり中途半端に終わってしまう我々とは人間が違うと感じる。時間がたつと後は後悔だけが残り、内輪で呑んだくれた時には単なる昔話だけで盛り上がるという事になる。気が付いたときには自分の気力、体力が低下し、あの時登っておけば良かったと後悔する。それだったら自分の実力にあっただけの山登りでも、後で納得する結果を伴う様たまには真剣になってみる事も必要だろう。


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池の泥上げ

2006年07月10日 | 田舎の話
先日の日曜日は田舎の家の池の泥上げを行った。3年ぶりの池の大清掃なのだが、たまった泥は軽トラックで5台分の結構疲れるくらいの量。この池は3mくらい高い斜面の用水路から水を引いている為、砂と泥が少しづつ流れ込み、放っておくと何時の間にか池は埋まってしまう運命にある。

この池は「タナケ」と呼ばれる庭先に良くある光景の一つで、山間地、特に雪国の山形などでは古い民家に必ずあるもの。実はこの小さな池、当地では生活に密着した、無くてはならない存在となっている。特に冬は1.5mほどの積雪になると屋根から落とした雪が堆積し、終いには軒先を越える高さとなる。その為に池に投げ込んで少しづつ消雪して行く重要な役割を担っている。

また庭先の豊富な水は野菜洗いから鍋、釜の洗い、農機具の洗い、家の掃除の雑巾洗いなど、自然の恩恵を受けた有り難い存在。いざとなれば防火用水、子供の頃は贅沢な自家用プール・・・etc。また昔は春先になると鯉の幼魚を放ち、残飯などで丸々と太らせて正月の頃には大事なご馳走になると言う寸法。実に貴重なタンパク源で、子供の頃はと言えば鯉の甘露煮が最高の贅沢料理を教えられていた。今でも米沢など置賜地区では鯉の養殖が盛んで、かつての伝統文化が引き継がれている。何しろ魚といえば鯉、鮒それとびっしり塩付けにされたマスしか知らなかったので・・・。

先人の知恵とは素晴らしく、合理的で殆ど無駄の無い生活スタイルで、今頃になって見直され始めてきた「資源循環型社会」の最も良いお手本がここにある。ここ最近の中間山間地は70~90歳位の爺さん、婆さん位しかいなくなり、戸数も激減して集落そのものが崩壊してしまう例が珍しく無い。屋根の破れた草ぼうぼうとした廃屋を見るとやはり寂しい。

しかしこんな不便で冬の暮らしの厳しい集落でも、爺さん、婆さん達はまったく元気で、町に住む子供達の誘いなどに応じる事も無く、幸せな田舎暮らしを放棄しようとする人はあまりいない。いまさら知人もいないよその町で暮らす事に興味がなく、よけいなストレスは無縁の生まれ育ったこの地で、自分のペースで悠久の時間を過ごす事こそ価値があると思っているのだろうか。お金が大きな尺度をなっている我々の暮らしとは違い、人間本来の生活力溢れる生き方のようにも思える。

ちなみにこの春池に放った10匹の鯉は、池の水を抜いたときの不手際で昇天召されました。合掌。

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パチンコ

2006年07月06日 | 山スキー
フィットフェルト締め具 画像は「天然食館」さんサイトから転載させて頂きました。

「パチンコ」 山スキーヤーでこれをご存知の方はど位いるだろうか?パチンコとはまたの名を「フィットフエルト」とも言う。この締具は革製のバンドにフック式の金物を取り付けたもので、ヒールフリーで登山靴、スキー靴、またはゴム長靴でも使用できる便利な代物だ。フィットフエルトもご存知の方は少ないだろうし、もしご存知であれば少なくても私より年代は上の山スキーヤーでしょうか。

自分は長年山スキーをやって来て、ある意味でラッキーな体験をした一人と思っている。いま使っているビンディングは多機能、かつ高性能のディアミールだが、ここまで至る間の変遷は実に長い。これは子供の頃の遊び道具を含めての話だが、山スキー関連という考えからすると次の様になる。パチンコ(フィットフェルト)→カンダハー→ジルベレッタ100?(初期のワイヤー式)→サレワツアービンディング→ディアミール。

ディアミール以前はあまり山スキーをやっていなかったので、当時山スキーで主流を占めたジルベレッタ400系を使ったことはなく重要な部分が欠落しているが、それ以前のパチンコとカンダハーには色々とお世話になった経緯がある。えらい大昔の話も同然でこうしたかつての愛好家はきわめて少数派だろうが、自分にとってはスキーの変遷を辿る上で貴重な経験と思って実に思い出深い。

フィットフェルトとの最初の出会いは小学生1年生の頃、ゴム長靴に単板スキーに竹のポールというスタイルの時代だった。板にはエッジなどは無く、ソールも今のようなポリポロピレン製では無く木にラッカーを塗った安物だった。購入先はスポーツ店などではなく、近くの金物やとか本屋などで買った思い出がある。要するにスポーツ用品でもなく、生活に直結したした用具でもない、単なる遊び道具、要するに「おもちゃ」だった。

この単なるおもちゃの締具なだが、実は今の山スキーの基本的な要素を含む多くの思い出がある。子供の頃はといえば山奥暮らしで、冬になると子供の遊びばソリとスキーが唯一熱中できる時間だった。近くにスキー場などというものは無く、フィールドは裏山の伐採地跡とか杉の植林地で、もちろん踏み固められた斜面などは無く、自分の板で踏み固めてコースを作るのが常識。

スキーは直滑降オンリーでターンする知識も技術もなく、ひたすらスピードを出す事とジャンプごっこをしてはしゃいでいた。そして同じ斜面に飽き足らなくなると雪を掻き分けて山のてっぺんを越してゆき、次の山の斜面を物色してコースを踏み固める。山を越した時の新しい発見と驚きに心が躍り、ジャンプ台を作って飛んだ時は興奮物だった。わずか5~10m位だったろうが20m位は飛んだ気分になって有頂天だった。散々転んで全身雪まみれになりながらも深雪との戯れの時の感触は楽しく、それは今の山スキーでも同じだ。

このヒールフリーの便利なこの締具こそテレマークスキーの初期スタイルであり、滑りにジャンプ、それに雪山を縦横無尽に歩き回れるスキーは、ソリ遊びと違って無限の可能性を持った夢の様な遊び道具でもあった。たとえスキーシールなど無くとも階段登行で殆ど斜面は登り切る事が出来た。今思えばこうした雪山での思い出が摺り込まれ、今の山スキー道楽に通じているのかも知れない。おそらく自分に限らず、東北を中心とする雪国生まれのご同輩には共通する経験、思い出ではなかろうか?

今年の1月に亡くなられた故、三浦敬三先生が八甲田で見事なパウダーのツリーランをされている映像を見た事があるが、おそらくこのフィットフェルト時代のものではないかと思う。ここまでに辿り着くスキルは相当高度なもので、すっかり用具に頼り切った我々のレベルとは無縁の物かもしれない。

ちなみに自分の夢は自衛隊ご用達のあのウロコ付きの板で、南屏風のパウダー斜面をウエーデルンで下る事です。何とかあの板を調達する方法は有りませんかね?

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下刈り最盛期がやってくる

2006年07月02日 | 林業
この時期、結構手間のかかる仕事が待っている。「下刈り」または「下草刈り」とも言いう、6月~8月の間は杉の植林地の重要な手入れを行う仕事だ。スギの木は植林してから最低でも40年での伐採、現在では60~80年での長期伐期が一般的になっている。ただ植林してから10年間は大変に手のかかる時期で、雨が多くまた日ざしの強い時期には下草が一斉に伸びてしまい、成長の遅い杉の幼木は日光を浴びる事が出来ない。その為年に1回は下刈り機で刈り払う必要がある。

 しかしこの時期の下刈りは炎天下しかも急斜面での作業が多く、かなりの重労働で高齢者の作業はかなりの負担となる。最近は主伐(スギの木を伐採して出荷すること)した後は植林することも少なく、そのまま放置されて薮山になっている所が多く、杉の木を改めて植林しようとする事も少なくなった。つまり過去2百年以上繰り返されてきた「植林」→「伐採」→「植林」という絶え間ない日本伝統の林業サイクルが断ち切られてしまった。

 7~12年前に植林した山は今でも手のかかる時期だが、放置する気にもなれないので毎年のこの時期は毎週のように通い詰める羽目になる。今すぐ現金収入になる訳でもなく、わずかな補助金が交付される程度で旨みは無く、まあ、普通なら放置される運命だろう。

 しかし過酷な肉体労働でも、作業を終えて刈り跡を見ると気分もスッキリし、何か日ごろのストレスも解消したような気分になる。
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