東北アルパインスキー日誌 ブログ

東北南部の山での山スキー、山歩き、山釣りなどと共に、田舎暮らしなどの話を交えながら綴っています。

2007年 沢登りの顛末

2007年10月29日 | 沢登り

 今年度沢登りの総決算と言う程のものではないが、今シーズンは湯沢スラブでのつまずきから始まり、所用で2回のドタキャンを含めてあまり山に行けず、大きな成果の無い年だった。沢では山スキーのような未開拓コースは少なく、日帰りコースであまり人の訪れないような、未知の要素を追い求めようとしても難しい。 
 
 今年は登り損ねた朝日連峰、祝瓶山のカクナラ沢と、飯豊連峰の胎内川こそメインイベントのはずだった。しかし、後で聞いてみれば共に難儀な沢で、カクナラ沢ではゴルジュ内に凝縮された滝の連続に行く手を阻まれ、胎内川~本源沢では全て露出した滝壺の激流に翻弄されらしく、話を聞くと私などは正直な所「行かなくて良かった」と安堵している次第。今更5級の沢などを勢いで登れる程甘くはない。

 
      障子岳 中間リッジ~第2スラブ


           祝瓶山 コカクナラ沢

 しかし32年ぶり障子岳東面スラブを訪れる事が出来、思い出深い実にご機嫌な日々でもあった。障子岳東面スラブは最近は殆どトレースされていない様だが、10月の雪渓のない時期、大井沢川を遡行してからの完登となるとボリュームも有り、日帰り山行としては充実感に満ちている。もっとも、6月頃なら雪渓を詰めてもっと楽に取り付けるが、場合によっては中間リッジをブッシュを支点に取りながら懸垂で下り、スラブ群だけ快適に攀じるというのも良いかも知れない。50mロープなら6~7回位で取り付き点に達するだろう。

 また、記録が見られない祝瓶山南面のコカクナラ沢をトレースしたが、考えてみれば未知のコースの遡行程贅沢な沢登りもないと言える。祝瓶山の沢といえば南面の金目沢・西面の角楢下ノ沢がメジャーだが、ヌルミ沢・コカクナラ沢・カクナラ沢も決して負けてはいない。標高こそ低いが東面は山頂から鋭く切れ落ち、豪雪の朝日連峰を物語るような、深いゴルジュと磨かれた美しいスラブで構成されている。コースはピラミダルな山頂に突き上げる独特な雰囲気で、小粒だが朝日の沢の要素が凝縮されており、登攀系を好む沢屋さんには是非お勧めしたい沢だ。

 飯豊、朝日連峰の沢には首都圏から沢のエキスパートが訪れるが、残念ながら地元の沢屋さんを見かける事はまずない。自分たちのような中年沢屋も普通じゃないが、沢王国の山形県で沢登り人口が少ないのはやはり寂しい。

※カクナラ沢は10年前にわらじの会が遡行記録(西の沢)を発表しており、長井山岳会の方も2003年に遡行しているようです。    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒伏山南壁 中央ルンゼ初登攀争い  No.4

2007年10月18日 | クライミング

【中央ルンゼ幻の初登攀】

1966年9月に実質的な中央ルンゼ初登攀が成されたが、実は1年前の1965年に意外なもう一つの初登攀が成されている。この登攀は記録には残っていないようだが、S氏によるとルートは中央ルンゼの風の踊り場より左側のフェースに取り付き、直上してから上部のハング帯下のバンドを右にトラバースし、中央ルンゼ核心部の垂壁部付近を突破してブッシュ帯に到達している模様です。

このパーティーは1965年の秋の呉田豊誠氏ら(仙台高校山岳部OB おろおろ会)で、現在では登られる事の無い幻のルートにより、中央ルンゼが攻略されたと見る事も出来ます。このルートの詳細は解りませんが、個人的な意見としては1977年7月にかつて自分がトレースした、ダイレクトルート上部のラインと重なっているのではないかと思っています。(途中で残置ハーケンは無かった)当時このルートを登って上部のハング帯に達したとき、中央ルンゼ方向に走るバンドには古びた鉄カラビナが有り、どうしてこんな所に有るのか不思議に思ったことがあった。なお、西川山岳会パーティーが昨年初登攀したルート「天の川」は一部ここと重複すると思われます。
叉はあまり現実的ではないと思うが、1972年9月に初登攀されている左削壁ルート(相沢昌一氏パーティー)を辿った可能性も有り得ます。以前、相沢氏に聞いた話によると、左削壁ルートには既に残置ハーケンが有った模様で、いったい誰が残したものかは解らなかったそうです。


                        黒伏山南壁 中央ルンゼ核心部の周辺

この方は衝立岩の雲稜第2ルート?を初登攀直後に再登するほどの実力者で、S氏によると当時この方に肩を並べる人は誰も無かったらしい。片手懸垂をこなしかつバランス感覚は抜群で、現在のフリークライマーに通じようなセンスと能力の持ち主だった模様です。しかし、彼は意外とこのルートに対しての執着心はあまり無かったようで、その後山頂のピナクルを目指す事も無く、また、冬季の登攀を試みようとする事もなかった。

【中央ルンゼ冬季の初登攀】

この中央ルンゼの初登攀を逃してしまい、悔しい思いで次の目標を冬期登攀に向けた人がいた。もちろん当時地元の山岳会で冬季登攀を行っている人は無く、首都圏のエキスパートでも一の倉沢レベルの冬季登攀者は数少なかったと思われるが、1968年12月に意欲的な第1回目の試登を行っている。このメンバーの一人が時々登場するS氏らで、1969年12月の第2回目試登記録が宮城教育大学WV部会報に載っている。この時は正月の寒波に見舞われ、分厚い氷と猛烈なチリ雪崩の攻撃にに会い、3人テラスに到達しただけで敗退したとある。この時はチリ雪崩と共に落下する氷にヘルメットが割れてしまい、次回からはヘルメットを2重に被る有様だったそうです。

しかし、この2回目の試登の時、黒伏山南壁の冬季初登攀を目指し、遅れてやって来たもう一つのパーティーがあった。このパーティーは、当時「渓谷登攀」というネーミングで岩と雪に記録投稿を重ねる県内の雪沓(ずんべ)山の会 で、以外にも目標は中央ルンゼには無く、3人テラスから左側のブッシュ帯に取り付き、ほぼブッシュ通しに山頂のピナクルを目指すものだった。ある意味では意欲的な冬季のルート開拓ともいえるが・・・。自分も一度無雪期にこのルート?を登った事があるが、残置ハーケンを3本確認しただけで殆どは垂直の木登り状態だった。

1970年12月、3度目の完登を目指してやって来たのは、仙台山岳会の創設者の今泉均氏、会員の佐々木祐二氏(S氏)、小坂勇二郎氏、土居忠氏の4名だった。しかし、キビタキの池に到着してみると意外なデポ品が有り、雪沓山の会のメンバーが今年もやって来る事をはじめて知った。ここで初登攀争いに火がついた様で、何が何でも最初にピナクルに立ちたいという思いだった様です。
12月29日に猛烈なチリ雪崩と氷の落下の中を直上ルートに取き付き、垂み入り口の難しい氷壁を突破してフィックスを伸ばし、困難な核心部を攻略して31日の真夜中に今泉氏、佐々木氏、小坂氏の3名が山頂のピナクルに達した。遅れてやって来た雪沓山の会のメンバー4名も1970年1月1日の翌日山頂に立ち、2本のルートからによるほぼ同時の初登攀がなされた。

登攀の様子はかなり苦戦した様で、夜間にはトップがアイゼンの火花を散らしながら墜落していったそうです。当時の写真を見ると頼りないチェスとハーネスに身を預け、軍手を絞りながら氷を叩き落して少しずつ攀じ登り、全身ずぶ濡れの様にして山頂に至った様子が伺えます。なお、この会のリーダーだった今泉均氏はその後1972年、当時は未踏峰だった、ネパールヒマラヤのランタン・リ(7205m)の単独試登を試み、帰らぬ人となりました。   合掌。

   
        故 今泉均氏               佐々木祐二氏

   
        3人テラス下?           核心部取り付きの雪壁

  
【黒伏山南壁メモリアルアルバム】

1974年12月30~1975年1月4日  海外登山研究会 9名

ヒマラヤ遠征のトレーニングの為に中央ルンゼを登攀。核心部上部までトップを勤めたが、遅れてフィックスロープを上ってきたメンバー3名とチェンジさせられ、冬季第3登を逃してしまった悔しい山行。20歳で最年少メンバーだったが、その後冬季の中央ルンゼをトライするすきっかけを失ってしまった。
当時は肩がらみで確保していた為、トップを確保しているザイルから水が流れ、左腕から入って右腕から流れていって全身ずぶ濡れとなった。緊張する場面ではトップを確保する間は手が離せず、小便も垂れ流しにていた事も良く覚えている。意地でもトップを続けるべきだったと後悔しているが、その当時はまだまだ未熟でのんびりタイプの新人。後で、中途半端な山行は一生の後悔を残すと知った次第です。   

  
    南壁をバックに            核心部上部までのルート工作

1977年1月  坂野 土居

1976年7月に開拓したダイレクトルートの冬季登攀を目指し、赤い大ハングを越えて下部岩壁を登り切ったが、結局上部ルートは手付かずのままの敗退。大ハングでは2mにも及ぶツララをたたき落しながら越えたのが印象的だった。まだまだ実力不足でクライミングへの強い意志もなく、その後このルートを試みようとする闘志もあまり沸かなかった。
この時、中央ルンゼに取り付いた仙台RCCパーティー(鈴木氏ら)がワンプッシュで完登し、冬季第4登を果たして明暗を分けた。この頃から関心事は何となくヒマラヤへ。

 
 赤い大ハングをリードする       雪にべったりと覆われた黒伏山南壁

1993年12月30日~1994年1月3日   遠藤 遊佐 大石 坂野

冬季のダイレクトルートに遠藤さんと同行させてもらい、4ビバーク5日間を費やしてようやく完登。自分の出番は無かったが、ようやくこのルートにけじめが付いた様でそれなりには満足。これが最後のクライミングとなり、その後この世界に戻る事はなくなった。

 
     風の踊り場付近で遠藤さんと共に            核心部へ至る雪壁


黒伏山南壁ダイレクトルート冬季初登攀 

平成41230日~平成513日

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

深刻なナラ枯れの被害

2007年10月05日 | 林業

「ナラ枯れ」って聞いた事ありますか?
この被害は紅葉の時期でも無いのに、ミズナラ、カシワ、コナラ、クリの木が枯れてしまい、葉が赤くなってやがて枯死してしまう現象である。話には聞いたことが有るが実物を垣間見た事は無く、先日の朝日連峰の三面コースを訪れた折、その被害の深刻さをまざまざと見せつけられる事となった。

奥三面ダムを出発して三面小屋を目指し、心地よいブナ林を散策気分で歩いていた時、太いミズナラの木下に多量の木屑が散らかっていた。最初はなんだか解らなかったので良く木を観察した所、樹皮には5mmくらいの無数の穴が開き、そこからまだ新しい細かな木屑がこぼれている様だった。その数は2~300ヶ位は有ると思われ、その木を見上げてみると葉がすっかり赤く色づいている。急激に枯れだした為か葉は落ちていなかったが、まだ紅葉など程遠い沢筋の林での姿は異様に感じられる。
それよりもこのすさまじい被害の進行を見ると、何か恐ろしい自然破壊が起きている様で薄気味悪さを感じる。

ナラ枯れの原因はカシノナガクイムシという害虫が穿入し、その媒介によってナラ菌が多量に繁殖し、形成層が壊死して通水障害を起こして木が枯れる。その数は何百・何千にもなるらしい。そしてその進行の速さは急激で、枯れ始めてから3ヶ月ほどで枯死が終了すると言われている。この被害は北陸、新潟を経て山形県の庄内に達し、現在は秋田県の一部にも及んでいる。現在、薬剤注入などが試みられているが今の所有効な防除方法は無く、成虫になったカシノナガクイムシが飛散して広がる一方で、この状況が続けばナメコ・シイタタケのホダ木となるミズララ、コナラなどは大きな被害を受ける恐れがある。やはりこれも温暖化と無縁では無さそうに思える。

       おびただしい虫の繁殖力

 

          三面ダムの湖畔にて

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする