東北アルパインスキー日誌 ブログ

東北南部の山での山スキー、山歩き、山釣りなどと共に、田舎暮らしなどの話を交えながら綴っています。

疲れる忘年会

2006年11月27日 | その他山関連
先日は昔の山仲間と蔵王町のとある山の中の一軒宿で忘年会。もう大半が50を越えたオヤジばかりの集まりとなると昔話に花が咲くが、いわゆる普通のOB会とはちょっと違い、異常な盛り上がりを見せるのがこの集まりの特徴。
殆どのメンバーはとっくに山から遠ざかり、海釣りに夢中になって青森、伊豆まで出かける者、グライダーに入れ込んでいる者、古民家を手入れして別荘暮らしを自慢している者、自分で自宅を建ててしまう者、派手なボルボでいきなり会場に乗り込んでくる者など様々。昔の付き合いからは想像出来ない様な人生を歩んでいる人が多い。

しかしかつて自分の歩んだ道は決して消え去る事は出来ず、一気に30年前の仲間の世界へとタイムスリップして行く。開始前から既に酔いつぶれている毎度のメンバーもいたり、宿に堂々と持ち込んだ酒はなみなみと注がれ、ボルテージは上がる一方でまるで歯止めが効かない。現役時代にはとても手の届かなかった銘柄酒、ビンテージもののウイスキーなど哀れな存在。質でなくて量である。

しかし一人一人と酔いつぶれて行くが、最後の残る人は何時もだいたい決まっている。自分より10歳程上のT氏、もう少しで60歳に手の届きそうなS氏。夜もふけた2時頃になって大声で怒鳴りあっていて自分も目が覚めた。いわゆる「表へ出ろ!」の話である。仲裁に入った元会長サンの尽力で乱闘騒ぎは免れたが、静かでひなびた渓の宿にはまったくふさわしくないご乱心。宿のお上さんの驚きようを考えるとお気の毒と言うしかありません。
結局、外の廊下に寝込んでしまった巨体のT氏を2人で引きずり上げ、コタツに寝かせて今回はジ・エンドとなった。翌朝のT氏の額には階段で転げ落ちた時に付いた勲章が光っていた。

翌朝になると当事者2人は殆ど記憶が無く、T氏は気持ち良さそうに一番風呂につかり、低農薬栽培の野菜が美味しい朝食をたいらげご満悦。S氏は自分の事など棚に上げ、「ちょっと皆騒ぎすぎてうるさかったな」とのたまう。しかし、周囲の我々も怒りなど無くて笑いのネタとなる。要するに昔からみんな慣れっこになっているのだ。30年前となんら変わる事の無いメンバーだが、これから30年先も変わる事はあるまい。しかし来年の予約を入れるタイミングには困ってしまう。


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雪囲い

2006年11月23日 | 田舎の話

何時もこの時期になるとやって来る必須の作業がある。雪国生まれの方ならご存知の雪囲いだ。山間地の集落では家の前に雪消し用の小さな池があり、その周りには坪木のある庭付きの家が多く、家屋周りの作業以上に面倒なのが坪木の雪囲いなのだ。特に積雪が150cm程になると作業量も多く、杉の木の皮を剥いだ細木ですっかり囲うのが普通。

以前は老いた親父の一人仕事だったが最近はそういう訳にも行かず、今は力作業と高い所の縄結びは自分の仕事になってしまった。4月になると解体搬出の手間も必要で、こんなに面倒ならいっその事切ってしまったらどんなに楽かと思ったりもしたが、家の周りに樹木の無い光景は殺風景で潤いが無い。かつては植木屋から売ってくれと言われた事もあったが、今の時代に買い手など誰もいない。しかし、別に庭師を頼んでいる訳でもなく見てくれは今ひとつだが、先祖代々受け継いだ坪木は歴史があって何か表情がある。

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黒伏山南壁の新ルート

2006年11月08日 | クライミング

西川山岳会さんのHPに黒伏山南壁の新ルート開拓の記録が載っていたが、この記録を見て何か懐かしくなった。

1977年6月、新ルート開拓の為、中央ルンゼを登って6Pめの核心部手前から新ルートに入り、左に斜上してカンテの左斜面を直上して帯状ハングに達した。左にトラバースしてハングをA1で乗り越え、1ビバークの後は上部のスラブを経て頂上のピナクルに立った。

このピッチは傾斜のある壁だがフリクションは抜群で、その当時のビブラム登山靴でも一気に登り切ることが出来た。壁には横に摂理が走り、途中につつじに花が咲いていた記憶がある。当時はビンボー学生でハーケンは殆ど回収したが、帯状ハングの基部に古い鉄製の錆びたカラビナが残置され、何処を辿ったのか先人の苦闘の跡が残されていた。

もし今でも現役時代ののモチベーションが有り、そして実力が有ればあったならば、私もこの新ルート「天の川」の再登を目指したでしょう。まあ、上部のピッチはかなり手強そうなので手に負えないかもしれないが・・・。頂上まで抜ける価値ある数少ないルートとして、今後多くのクライマーが訪れる事でしょう。

このブッシュに覆われた黒伏山に通い詰めた頃には、アメリカがベトナムで使用した枯葉剤がよく話題にのぼってっていたが、秋の南壁はスッキリして実に快適。焼石岳の猿岩はアプローチルートがダム建設で水没間近かとなってしまい、残った黒伏山は東北では貴重な本チャンルートと言えるでしょう。


参考のルート図 

http://f58.aaa.livedoor.jp/~yamadori/kurobuse.html




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チベット難民の悲劇

2006年11月07日 | ヒマラヤ

もう1ヶ月ほど前のニュースなので一般的には注目されなかったが、中国とネパールの国境付近で起きた忌まわしい事件に触れておきたい。

9月30日、チョオユー(8201m)のBC付近のランパパスを越え、チベットからの難民43人が国境を越えてネパール側へ逃れようとした。その際に中国の国境警備隊に追尾され、尼僧を含む2名のチベット難民が銃撃されて死亡した。しかも現場はチョウユー登山隊のBC付近で、登山中の各国の登山隊の隊員60名に目撃されている。無抵抗な尼僧が無残にも背後から銃殺されたが、多くの外国人の目の前でこの様な行為に及ぶことが異常である。さらにこの事件が初めてではなく、表に出ないだけで過去に何度か起きている様だ。

チベットは日本からは実に遠い存在で、日本人には無知、無関心で今何が起きているかについてはあまり知られていない。一般的にチベットは中国の一部と認識されているようだが、民族、言語、文化、習慣とも中国(漢民族国家)とは異なり、7世紀頃から殆ど独立を保ってきた敬虔なチベット仏教徒の独立国であった。

1950年、共産主義国家となった中国は「チベット開放」を名の下に大軍で進撃しし、当時侵略を恐れて鎖国政策を取っていた東チベットに進行した。4万人の中国兵は物理的に抵抗する能力を持たないチベット軍を圧倒し、1951年、中央チベットを制圧して全土を中国の支配下に置いた。その後2万人の人民解放軍がラサに駐屯し、これは当時ラサ人口の半分にも達した。その後は600万人だったチベットの人口は今や750万人の中国人が流入し、やがて45万人の難民がヒマラヤを越えてインド、ネパールなどへと亡命した。ある意味では民族浄化と共に、人口爆発のはけ口としてチベットを利用しているようにも思える。

この様な明らかな侵略に対し、インド、アメリカを初めとする国際社会は中国を非難したが、西洋諸国は当時朝鮮半島情勢に気を取られていた為、悲惨な状況にあるチベットを見捨てた。現在、日本政府も中国と国交を回復したことも有り、あまり利害関係のないチベットには見向きもせず、中国とのトラブルを避ける為に頬被りをした状態が続いている。

その後はまったく交渉なしで1951年、屈辱的な「17条協定」を強引に受諾させ、しかも一方的で条約を守らず、厳しい圧政と徹底した弾圧で中国化を図って既成事実を積み重ねていった。「宗教は麻薬に等しい」という毛沢東主導の無宗教国家の中国は、チベット仏教を否定し、貴重な金属で出来た仏像などは持ち帰り、全土の6000ヶ所に及ぶ寺院や僧院を徹底的に破壊し尽した。日本だったら名だたる国宝級の神社仏閣が略奪、破壊され、自分育った故郷の寺や神社も抹殺されると同じで、国家が滅亡すると同時に民族の誇りと伝統、そして信仰が奪い取られたに等しい。

この圧政下の1959年3月10日、中国の駐屯部隊は、兵舎内でも上演される演劇にダライ・ラマを招待した。しかし、中国側が護衛を付けずに来るように要請した為、ラサの人々の中国に対する不信感が広まり、大規模なデモが発生した。ダライ・ラマは事態の沈静化を図ったが、市街戦が始まった為側近と共に冬のヒマラヤを越えてインドの逃れた。その後ラサは戦火に見舞われ、戦車を投入した為戦闘は一方的なものとなり、多くのチベット人が犠牲になったり捕虜になった。

その後「開放」の美名の下に犠牲者をなる人は後を絶たず、文化大革命はチベット全土に及び、何年にも渡って密告、拷問、処刑、が繰り返され、反乱が発生した時には血の粛清が加えられた。インドのダラムサラにあるチベット亡命政府は、1950年から1984年までの間に犠牲になったチベット人は120万人と発表している。

中国はその後チベットを中国の領土と見なして、言語や宗教教育を含む地域文化を抑圧した。その結果、毎年平均2,500人以上のチベット人が、危険を起こしながらヒマラヤ山脈の国境を越えてネパールに入りし、亡命したダライ・ラマが率いるチベット政府のあるインドのダラムサラへ向かおうとしている。

その後のチベットの行方は益々悪化の道を辿り、現在50万人とも言われる人民解放軍兵士が駐屯し、中国本土からやって来た漢民族の商人、運転手、建設・道路・鉄道に関わる労働者などが溢れているという。中国政府は人口統計上の同化政策を推し進めており、あからさまな民族浄化政策とも取れる統治を続けている。中国語の出来ないチベット人は教育の機会も奪われ、社会的、経済的な地位は弱まってきている。抵抗できない民衆の中には酒やギャンブルに走る者もおり、市内にはアジアで人口比率の最も多い娼婦の街とも言われている。中国の勧める改革・開放政策にのっとり、多くの森林が伐採されて大都市部に運ばれ、無人地帯には核廃棄物が持ち込まれたとも言われている。

犠牲になった人は次の通り。

・戦いや蜂起によるもの           43万人
・餓死                     34万人   
・獄死・強制労働収容所での死      17万人
・処刑                     16万人
・拷問による死                 9万人
・自殺                       9000人

※餓死者とは、ツァンパを主食とするチベット人は大麦を栽培したが、漢民族の主食である小麦を無理やり転作させたが適地でなく失敗し、また多くのやって来た中国人に供出を強いられた為の死者と言われている。
この数値はペマ・ギャルポ著「チベット入門」によるものですが、その他のフランス人チベット研究者の数も100万人という数字であり、おおむね信頼できる数と思われます。

この様なチベットの事情をマスコミ各社が大きく取り上げても良さそうだが、じつは中国の言論統制の力に屈してしまっている。かつてダライ・ラマをY新聞が招待し来日した時、Nテレビ局がテレビに出演させた。しかしその事が後に中国の逆鱗に触れ、「特派員を北京から追放する」と脅され、その後はチベットの件に日本の大新聞は、ただ沈黙を守ったままになっている。

自分は残念ながらチベットを訪れた事は無く、たまたまヒマラヤ登山を通じて関心を持ったに過ぎない。しかしまだ中国側からのヒマラヤ登山が解禁されていなかった頃は、スゥイン・ヘディンやテイルマンの本を読みふけり、禁断のチベットに想像を掻き立てられた古いタイプの人間だ。多くの未踏の山域が広がるチベットは慕情の対象であった。しかし今や多くの観光客や登山者が押しかけ、大きな変貌を遂げたこの国だが、その姿とは相反し世界に見捨てられた国家の悲劇が存在する事に心を痛めます。思い出せばかつて登山隊のサーダーを勤めた、ペンバ・ノルブの若くて綺麗な奥さんはチベット難民だった・・・。


【カトマンズIPS=マーティ・ローガン、10月9日】
        
http://www.janjan.jp/world/0610/0610223216/1.php




 
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