先日の月曜日、休日出勤ですっかり予定が狂ってしまい、あまりにも午後からの暇をもてあましてしまい、ついつい久しぶりにS氏の携帯を鳴らしてみたら、夕方自宅に出頭せよとのお仰せ。その用件とは、日本山岳会の会報「山岳」を処分するので21冊を持って帰れというもの。もちろん断る理由などは無く、有りがたく自分でもあまり持っていない蔵書の一つにに加えさせてもらった。S氏がどういう訳で日本山岳会宮城県支部に在籍していたのか知らないが、会報の「山岳」には興味が有ったのでありがたく頂だいした。
今はまったく山を離れているS氏だが、飯豊連峰、黒伏山、利尻山の話になるとそのボルテージは高まってくる。現役山屋のような輝く眼差しからは熱い思いが伝わってくる様で、中途半端に終わってしまった自分とはまるで別人の様だった。40年以上も前のアルパインクライミング不毛の東北で、元祖山フリーターを自認する様な経歴を持ち、山が全てという極道の様な世界にいた方だが、当時は先鋭的な首都圏の山屋との交流など皆無のようで、むしろその事が創造的な登山を促したのかも知れない。
当日は中央ルンゼの話を聞きたくて伺った訳だが、意外な収穫があって面白かった。S氏の奥さんが名門山岳会の仙台山想会に在籍していた事は知っていたが、奥さんとの話のやり取りの中で、中央ルンゼの登攀記録らしい会報を持っていると言う、まったく意外な話が飛び出した。S氏もダンナのはずがこの話は初めての様子で、探し出してきた「山想61号」(昭和41年10月20日刊)を開いて共に驚いてしまった。この古びた会報には「黒伏山岩壁鈎状クーロアール登攀」、昭和41年9月16~18日(個人山行)という記録が載っていた。
このパーティーは当時仙台山想会の高橋二義氏、武田捷氏の2名。この両氏が実質上の初登攀者だとは聞いていたが、これこそ黒伏山南壁中央ルンゼの初登攀記録だった。まさか記録が残っているとは思わなかったが、中央ルンゼは我々東北のクライマーには思いで深いルートだけに、、その開拓期の様子が明らかになる事は嬉しい。
続く