雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

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雨宮家の歴史 4 父の著『落葉松』 4 第1部の1 父の誕生

2013年04月19日 06時24分20秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 4 父の著『落葉松』 4 第1部の1 父の誕生

     第一部    我が家のルーツ

  自分探しの旅に出る前に、我が家のルーツ探しの旅に出ることにする。
 我が家のルーツと言っても、昔から何代も続いてるような旧家でもなく、私で三代目の平凡な家系である。人は皆、自分のルーツを知りたい。ご先祖様はけなげで、立派だったと思いたいのは人情である。しかし、そういう話だけを集めたのでは、うぬぼれになってしまう。

 後述するが、父は半世紀近くをアララギ派の歌人として過ごしたが、その歌はわかり易く、そのままわが家の歴史でもあった。


 この自分史の第一部、第二部ではその父の歌を核として、話を進めていきたい。
 なお歌のあとの(  )内は作歌年を示す。

 Ⅰ 1  父の誕生

(一) 越前国福井区佐佳枝上町九番地出生 と書かれしわれの臍の緒 
           (  昭和四十四年  )

 父は、明治二十一年八月九日、福井で生まれた。その福の一字を取って「福男」と名ずけられたが「ふくお」でなく「とみお」と呼ばれた。歌会などで、ふくおさんと呼ばれると、「とみおなんだ」と気色ばんだというが、父も名前の由来は知らなかったようである。

 漢和辞典によると、福という字は、さいわい、しあわせ。人名として、もと、「とみ」とあり、更に福人ー福のある人、富にめぐまれた人という意味があるから、福は富にも通じているようである。しかし、父は富などには縁なく、一生を清貧に生きた人であった。

 父の生まれた福井の佐佳枝上町九番地を探すべく、先年福井市郷土歴史博物館より、地図のコピーを取り寄せて調べた。

 地図は、明治二十四年・昭和八年・現在と三枚あったが、父の生地は現在中央二丁目となって、県庁・銀行・新聞社などが集まっている。福井市の中枢部に近い所であった。

  作家の津村節子氏が、某新聞に「地域の祭り」と題して(平成十年九月十三日付)福井の佐佳枝廼社(さかえのやしろ)のことを書いていた。津村氏によると、佐佳枝は上、中、下と三町あり、氏は中町の生まれで、社も中町にあるそうである。父の出生地とは隣り合わせであり、氏の生家は織屋であった。

 福井は古くから、絹、人絹の生産地として有名であり雑誌『世界』に「絹扇」と題して、その歴史を連載中である。福井も随分変ったと言っている。

  父が福井で生まれたのは、祖父が陸軍の経理官として、福井に在勤中だったからである。
 明治二十年五月、陸軍省会計局付の陸軍三等書記(経理伍長)として任官した祖父は、名古屋鎮台(翌二十一年、第三師団となる)の歩兵第六連隊付、更に福井大隊区司令部付となって、福井に赴任した。大隊区司令部は、後の連隊区司令部に当たる。司令部は越前国一円を福井大隊区として、徴兵・召集の事務にあたっていた。

  明治維新の際、全国の城及び城跡は陸軍省の管轄となり、主に歩兵連隊などが置かれたが(静岡の三十四連隊、名古屋の六連隊など)福井では否決されて、城跡は旧藩主松平候に払い下げられた。そのため福井県では、敦賀や鯖江に連隊が置かれた。大隊区司令部は、福井城跡内に置かれたものと思われるが不明である。現在、城跡は県庁・県警本部などになっている。
                                
  祖父は、浜松の北方、現在の天竜市船明(ふなぎら)の河島家に、安政四年八月十二日に生まれた。

  河島家は、代々土地の八幡宮の宮司を務める神官であった。四百年ほど続く現在は十九代目であるが、祖父はその十五代目の次男であった。次男だったのに長太郎と命名された。何か仔細があったのか知らないが、後年(明治二十七年)三十七歳の時、卓二と改名した。本編ではまぎらわしいので、卓二で通すことにする。

  国道百五十二号線は天竜川の東岸に沿って北上するが、船明ダムのある東側の山際に八幡宮がある。そこが河島家である。

 幕末の動乱期に、遠州地方の神官たちで、時流に乗り遅れまいと「遠州報国隊」が結成され、従軍した者もあったが、もともと武士ではないから、主に警備や給与担当などの後方勤務にあたった。

 河島家でも卓二の祖父の十三代目が参加し、東征軍の食料調達などの為に散財して、殆ど河島家のものだったと言われていた船明の土地も手放してしまった。卓二はちようどその貧窮の時代に生を受けた。母は産後の肥立ちが悪くて、卓二の生後四十余日にして亡くなってしまった。その為祖母に養育されたが、その祖母も他界すると、次男だった卓二の居場所が無くなってしまった。

 明治十四年二十五歳の時、船明とは天竜川を挟んで反対側の、引佐(いなさ)郡麁玉(あらたま)村大平(おいだいら)の中谷民次郎家へ養子としてはいった。
             
(二) 戦いの跡はいずこぞここにして  さやかに聞こゆ谷川の音
       大平城跡にて(  大正十三年  )

 大平城は南北朝動乱の時、南朝方の宗良親王が拠点として戦った所で、現在は浜北市の史跡として保存されている。宮口から入って行くが、今でも陸の孤島という感じがする。 『遠江国風土記伝(寛政四年刊)』により、船明と大平の社会的比較を考察して見よう。


  「船明は五百二十九石八斗四合。天竜川の運送船揚げの場所なり。信濃国伊奈郡の檜をこの大川に流し、ここに於いて取揚致。百姓、農の閑に筏を運送する。(船明の筏師は遠国まで聞こえ、越後あたりまで出かけたという。大平は七十三石八斗一升(船明とは格段の差があった)水田無し・茶・漆・炭・黒木などを産物となす。」

 船明が天竜川の水運で栄えたのに引き替え、大平は山奥の純農村であった。
 現在は太平には水田もあり、果樹園が多く、柿は特産物として全国に知られている。しかし、住民は明治二十四年、八九戸四二四人に対し、昭和五十三年、一〇五戸五二九人と僅か増えているに過ぎない。

 先年、太平小学校の新入生は一名であった。若い人がいないということであろうか。