雨宮家の歴史 6 父の著『落葉松』6 第1部の3 中谷家の誕生
会計卒になった卓二は、最初被服課に配属されたが、すぐ服庫課に代わった。この服庫課が卓二の一生の職場となった陸軍被服廠の前身である。二年半、陸軍会計の勉強をした。
卒の任務は糧秣(りようまつ)(編注①)の授受・倉庫監守・炊事・囚人警護と職制で定められていたが、会計に関する教育は、明治十九年、軍吏学舎(経理学校)開設まで一定していなかったから、局独自の方法で講習したものと思われる。
陸軍会計事務手続きを定めた「在外会計部大綱条例」の実施手続開設書「記牒須知」などを基に様式簿記を修得して、明治二十年五月、陸軍三等書記(経理伍長)に任官し、名古屋鎮台(ちんだい、編注②)付となった。
赴任するに当たり、卓二は上京以来五年ぶりに、養家のある大平を訪れた。妻子を同道するためである。故郷に錦を着て帰った訳であるが、ここで一頓挫をきたした。妻が首を縦に振らなかったのである。
卓二の上京が合意だったのか、出奔だったのかは分からないが、とも角、そんな遠い所まで行きたくないと断られた。福井・金沢・富山など日本海に臨む北陸地方は一年の半分を雪に閉ざされる寒い国である。交通もままならぬところである。これには卓二も困り果てた。
ところが、ここに強力な助っ人が現れた。卓二の生まれた船明と同じ天竜市二俣の、天井(あまい)儀平の次女まつであった。どうして彼女がしゃしゃり出て来たのか、詳しいことは知らないが、私はどこでもついて行くと言った。十五歳であった。当時の結婚年齢としては、別段早くはなかった。それだけ強い性格を持っていた。
私たちには祖母となるまつは、後のち、私たちの生活に、良いにつけ悪いにつけ影響を及ぼすようになるのである(編注③)。
系図を見ると、私たちは中谷を名乗っているが、中谷の血は流れていない。中谷の血は養家のしまより長女のけんに流れており、私たちには卓二の河島家と、まつの天井家の血が流れているのである。
また私たちは、中谷を「なかたに」と呼んでいるが、大平では「なかや」である。大平には、足立・沢木・平野・中谷の四つの姓しか無く、中谷は全部「なかや」である。祖父たちは、永年他郷で暮らす間に「なかたに」と呼ぶようになってしまったのであろう。
しまは翌二十一年三月十九日付で正式に離婚し、自家を出て近くであるが、他村の家に嫁いでしまった。
まつの入籍は後述するが、明治二十七年のことである。更に不思議なことは、先妻が離婚して他家へ嫁いでしまった養家ー卓二にはもう縁が切れた筈であるー中谷家を、明治二十九年に相続していることである。
昭和十四年に「ヨーロッパ情勢は複雑怪奇」なる名言を残して退陣した首相があったが、中谷家も、ともかく複雑ではあるが、ここに誕生した。
(編注①)糧秣 兵隊の食料と軍馬が食べるまぐさ(秣)のこと
(編注②)鎮台 日本陸軍の編成単位。1871年(明治4年)から1888年(明治21年)まで存続し、「鎮台」から「師団」に変更された。
(編注③)まつ 父の祖母である「まつ」は父の次男である僕(雨宮智彦)にとっての「おおばあちゃん」であり、今回「中谷家年譜」を作成して初めてわかったのは、亡くなったのが1962年(昭和37年)だから僕が11才の時ということだ。僕が小さい頃の大家族(9人くらいだったと思う)の筆頭に君臨していたという記憶がある。ちなみに、父の母で、僕の祖母の「里子」が亡くなったのは1964年だとわかったので、ぼくにとっての「ちいばあちゃん」は、亡くなる2年前まで姑の下で生きていたことになる。
ここに掲載するのは書籍『落葉松』そのままでは、ありません。ここでは新たに「編注②」「編注③」を追加しています。今後の掲載も、随時、補足をしていくつもりです。