雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮家の歴史 5 父の著『落葉松』5 第1部の2  祖父の上京

2013年04月20日 20時01分34秒 | 雨宮家の歴史

雨宮家の歴史 5 父の著『落葉松』 5 第1部の2  祖父の上京

 Ⅰ 2 祖父の上京

  養子に入った中谷家は農家だったと思うが、祖父の卓二にとっては、この太平の土地と家とが、祖父の性格に耐え切れなかったのか、養家の長女しまとの間に明治十五年長女けんが生まれたが、翌十六年、妻子を残したまま一人で上京してしまった。合意の上だったのか、出奔だったのかはわからない。


  上京するといっても、現在のように簡単な時代ではない。鉄道は、新橋ー国府津(こうづ)間しか通じていないし、貧乏書生としては歩くしかなかったであろう。

 当地の日本楽器(現ヤマハ)の創始者山葉寅楠翁が、職人河合喜三郎とで作ったオルガンを、音楽取調所(今の東京芸大音楽学部)で調べて貰うために、二人で天秤棒でかついで箱根の山を越えていったのは、更にその四年後の明治二十年のことである。東海道線が全線開通したのは明治二十二年七月一日であった。

  東京は新開地であった。武士たちと、入れ替わりに全国から一旗揚げようと、あらゆる階層の人々が集まって来た。卓二もその一人であった。


 この時機、明治新政府は岩倉具視を中心として、天皇神格化の強調を伊藤博文が引き継いで、民権運動を弾圧するとともに、大日本帝国憲法の制定に向けて着々と手を打っていた。序章の昭和天皇の行幸は、この明治初期にその芽を吹き始めていたのである。

  父の話によると、卓二は橋本屋という口入屋(私設の職業周旋業)の紹介で、陸軍の人夫になったようである。何の伝手(つて)も持たないぽっと出の田舎者には、その程度の仕事しかなかったのであろう。

 陸軍人夫は陸軍省会計局に属し、身体強健な身長五尺一寸以上(徴兵検査と同じ)の者で、一人で六貫目以上の荷物をかつぎ、また三十貫目以上の荷物を積んで車をひき、各々一日六里以上の行進が出来る者でなければならなかった。私は果たして祖父が、そんな力のいる仕事ができたのかなと考えこんだ。

  賃金は一般人夫で一日四十銭であった。外地に派遣されると五十銭になった。しかし、現実は親方がピンハネして守られなかった。その為後年紛争が生じた。当時東京では、人力車夫の日当が二十~三十銭だったから、鉄道馬車の出現で仕事にあぶれた人力車夫から、陸軍人夫になる者が激増した。殊に日清戦争が起き、外地派遣で五十銭になった故もある。

 陸軍人夫は軍の下請けだったが、輜重諭卒(しちようゆそつ)(編注①)となって、正式に軍に編入されるようになったのは、日露戦争ごろからではなかったろうか。「輜重諭卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち」と、輜重諭卒を揶揄する言葉がはやったが、そのいわれは私にも分からないでもない。

  陸軍人夫になったといわれた卓二が、約一年後に次ぎのような辞令を受けて、兵士となって正式に会計の勉強を受けることになった。そのことは、やはり卓二は人夫よりも、実務の方が身についていると思われたのだと思う。

 「 辞令
                       中谷卓二
  会計卒申付候事
        会計局付
   明治十七年九月十一日
    陸軍省会計局 」      

 明治五年二月、兵部省が陸軍省となり、第五局が会計部より明治十二年十月会計局となった。卓二が一生を陸軍人夫で終えることなく済んだのは、時の陸軍省野田会計局長のおかげであった。

 野田家は代々熊本藩細川家の勘定方を勤め、明治維新の時、野田は脱藩して京に走り、横井小楠(しようなん)(編注②)の門下に入って勤王方に属した。小楠が暗殺された後、東征軍の軍監となって、会津・函館戦に従軍し、維新後は青森県大参事(知事)となった。その際、派閥に関係なく困窮子弟の面倒をみて、書生や給仕として向学心に燃える少年たちにその場を与えてやった。その中に、のちの斉藤実・後藤新平・柴五郎たちがいた。

  野田は物事にこだわらない豪快な、面倒見のよい性格の持ち主であった。その藩政時代の経験を買われて陸軍に入り、明治十年の西南戦役には第二旅団会計部長となり、その後陸軍会計局長となった。会計局は発足したばかりで幹部は充足していたが、兵卒が足りなかった。それを補う為に、人夫の中からめぼしい者を選んだものと思われる。

  祖父は私の生前に亡くなったので、私には残っている一枚の和服姿の写真以外に、祖父の面影を偲ぶものはない。その写真の顔は父に似ていて、性格も同じように几帳面だったのではないか。それが野田局長の目にとまって、会計卒に採用された第一条件だったと思うのである。

(編注①)「輜重輸卒」  輜は軽い車、重は重い車。郡の輸送兵のこと。

(編注②)「横井小楠」  幕末の思想家・政治家。維新政府の参与となるが翌年暗殺され  た。

 


雨宮家の物 10(過去編) 昔のノートパソコン「メビウス」を捨てました

2013年04月20日 19時36分50秒 | 雨宮家の物

雨宮家の物 10(過去編) 昔のノートパソコン「メビウス」を捨てました

 むかし(いつか?不明)使っていた、シャープのノートパソコン「メビウス」は、夜、お酒を飲みながらパソコンを打っていて、うっかりお酒をこぼしてパソコンが消えてしまい、電源が入らなくなりました。

 さすがに、則子さんには告白できなくて、こっそり、奥の部屋の書棚にしまっていました。

 今年3月から、浜松市が公民館などで(「協働センター」と名称変更)、「使用済小型家電」の「ボックス回収」を無料ではじめたので、午後、則子さんがいないあいだに、曳馬協働センターへ捨てにいきました。

 ただし「小型家電」ですので、サイズが大きいと、設置したぼっくすの入り口から入りません。

 15センチ×30センチ×60センチが最大サイズです。

 このメビウスは、厚さ5.0センチ、縦24センチ、横29.4センチなので、余裕を持って入りました。

 携帯電話、ビデオデッキ、パソコン、ハードデスク、カメラ、音響器機、電話機、懐中電灯、時計、リモコン、ケーブル、ドライヤー、電気かみそり、ゲーム機、などなど、かなり、いろんなものを「回収」してくれるので、家のなかの「もう使わない物」を持って行こうと思います。

 ☆

 蛇足ですが「メビウス」は、18世紀~19世紀に生きたドイツの数学者で「メビウス・ループ(メビウスの帯)」を考え出した人です。

 ちょっと数学的に知識がなくて説明できないので、疑問に思った人は、自分で勉強してしらべてください。

 ようするに、空間と道がひんまがっていて、普通に歩いていくのに、なぜか、周囲の空間が「反転(わかりません!?、何が反転するの?)してしまう」という不思議です。

 

 


雨宮日記 4月19日(金) やっと頭がスッキリしてきました

2013年04月20日 06時22分21秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 4月19日(金) やっと頭がスッキリしてきました

 いま気がついたのは、ぼくが毎年の、いつもの「春の精神的低調」だったようです。つまり、毎年、4月のこの時期に「うつ」っぽくなって、頭の回転がすごく悪くなるのです。

 それが回復したので、やっと浜岡裁判静岡県の会のニュース「希望 第2号」の編集に入りました。来週までには、完成して、印刷・発送しないといけないので。

 それと、来週の土曜日、27日は、父の90才お祝いで、その日のための「雨宮家年表」を完成しないといけません。

 つまり、二重に忙しいのですが、どういうわけか、頭がスッキリ、透明になってきました。なんとか、なりそうです。

  

 


雨宮日記 4月18日(木) 則子さんと平和行進の準備で…

2013年04月20日 06時06分41秒 | 雨宮日誌

雨宮日記 4月18日(木) 則子さんと平和行進の準備で…感じる市役所の「変容」

 あんまり頭がスッキリしないのですが、則子さんと、5月末の平和行進の準備で、可美サービスセンターと舞阪文化センターを訪問しました。

 ぼくが運転して、車で家を出ました。昨年の道で、変化がないかどうか、市役所から平和行進が歩く道を車でたどりました。

 可美サービスセンターへ着いて、車を駐車場に止めて、建物の中に入って、いつもの「2階」へ行こうとしたら、「あの!」と後ろから呼び止められました。

 「すみません。保健福祉センターへ用事ですけど」と則子さんが言ったら、「保健福祉センターは、こちらです」と若い女性職員が言うので「えっ?」と思って、話をしました。

 市役所の機構改革で、保健福祉センターは「わたし1人になって」、1階へ降りたのだそうです。

 則子さんが平和行進の今年のチラシを出したら、「ああ!平和行進ですね」と言ってくれたので、昨年もいた方のようです。

 人員も設備も限られているなかで、協力してくださるよう、話をしました。

  ☆

 可美から舞阪まで、平和行進の歩く道路を車で走りました。

 いつもの平和行進の5月30日の昼食の会場、舞阪文化センターへ行ったら、昨年もいてくれた顔なじみの若い女性職員でした。

 ちょっと安心して借りる手続きをしていたら、彼女が「今年度いっぱいで、ここは耐震の問題もあって、閉じるんですよ」と言うので、びっくりしました。

 「となりのセンターを借りることにはなっているんですが、どの程度、どういう感じになるかはわからないです」ということでした。

 彼女のいうのでは、昔の舞阪町の感覚と、いまの広域の浜松市の感覚が違っていて…という嘆きのようでした。それは、正当な抗議だと思いました。