雨宮家の歴史 5 父の著『落葉松』 5 第1部の2 祖父の上京
Ⅰ 2 祖父の上京
養子に入った中谷家は農家だったと思うが、祖父の卓二にとっては、この太平の土地と家とが、祖父の性格に耐え切れなかったのか、養家の長女しまとの間に明治十五年長女けんが生まれたが、翌十六年、妻子を残したまま一人で上京してしまった。合意の上だったのか、出奔だったのかはわからない。
上京するといっても、現在のように簡単な時代ではない。鉄道は、新橋ー国府津(こうづ)間しか通じていないし、貧乏書生としては歩くしかなかったであろう。
当地の日本楽器(現ヤマハ)の創始者山葉寅楠翁が、職人河合喜三郎とで作ったオルガンを、音楽取調所(今の東京芸大音楽学部)で調べて貰うために、二人で天秤棒でかついで箱根の山を越えていったのは、更にその四年後の明治二十年のことである。東海道線が全線開通したのは明治二十二年七月一日であった。
東京は新開地であった。武士たちと、入れ替わりに全国から一旗揚げようと、あらゆる階層の人々が集まって来た。卓二もその一人であった。
この時機、明治新政府は岩倉具視を中心として、天皇神格化の強調を伊藤博文が引き継いで、民権運動を弾圧するとともに、大日本帝国憲法の制定に向けて着々と手を打っていた。序章の昭和天皇の行幸は、この明治初期にその芽を吹き始めていたのである。
父の話によると、卓二は橋本屋という口入屋(私設の職業周旋業)の紹介で、陸軍の人夫になったようである。何の伝手(つて)も持たないぽっと出の田舎者には、その程度の仕事しかなかったのであろう。
陸軍人夫は陸軍省会計局に属し、身体強健な身長五尺一寸以上(徴兵検査と同じ)の者で、一人で六貫目以上の荷物をかつぎ、また三十貫目以上の荷物を積んで車をひき、各々一日六里以上の行進が出来る者でなければならなかった。私は果たして祖父が、そんな力のいる仕事ができたのかなと考えこんだ。
賃金は一般人夫で一日四十銭であった。外地に派遣されると五十銭になった。しかし、現実は親方がピンハネして守られなかった。その為後年紛争が生じた。当時東京では、人力車夫の日当が二十~三十銭だったから、鉄道馬車の出現で仕事にあぶれた人力車夫から、陸軍人夫になる者が激増した。殊に日清戦争が起き、外地派遣で五十銭になった故もある。
陸軍人夫は軍の下請けだったが、輜重諭卒(しちようゆそつ)(編注①)となって、正式に軍に編入されるようになったのは、日露戦争ごろからではなかったろうか。「輜重諭卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち」と、輜重諭卒を揶揄する言葉がはやったが、そのいわれは私にも分からないでもない。
陸軍人夫になったといわれた卓二が、約一年後に次ぎのような辞令を受けて、兵士となって正式に会計の勉強を受けることになった。そのことは、やはり卓二は人夫よりも、実務の方が身についていると思われたのだと思う。
「 辞令
中谷卓二
会計卒申付候事
会計局付
明治十七年九月十一日
陸軍省会計局 」
明治五年二月、兵部省が陸軍省となり、第五局が会計部より明治十二年十月会計局となった。卓二が一生を陸軍人夫で終えることなく済んだのは、時の陸軍省野田会計局長のおかげであった。
野田家は代々熊本藩細川家の勘定方を勤め、明治維新の時、野田は脱藩して京に走り、横井小楠(しようなん)(編注②)の門下に入って勤王方に属した。小楠が暗殺された後、東征軍の軍監となって、会津・函館戦に従軍し、維新後は青森県大参事(知事)となった。その際、派閥に関係なく困窮子弟の面倒をみて、書生や給仕として向学心に燃える少年たちにその場を与えてやった。その中に、のちの斉藤実・後藤新平・柴五郎たちがいた。
野田は物事にこだわらない豪快な、面倒見のよい性格の持ち主であった。その藩政時代の経験を買われて陸軍に入り、明治十年の西南戦役には第二旅団会計部長となり、その後陸軍会計局長となった。会計局は発足したばかりで幹部は充足していたが、兵卒が足りなかった。それを補う為に、人夫の中からめぼしい者を選んだものと思われる。
祖父は私の生前に亡くなったので、私には残っている一枚の和服姿の写真以外に、祖父の面影を偲ぶものはない。その写真の顔は父に似ていて、性格も同じように几帳面だったのではないか。それが野田局長の目にとまって、会計卒に採用された第一条件だったと思うのである。
(編注①)「輜重輸卒」 輜は軽い車、重は重い車。郡の輸送兵のこと。
(編注②)「横井小楠」 幕末の思想家・政治家。維新政府の参与となるが翌年暗殺され た。