「自伝 青い地球とオレンジの花」への断章 ① ワープロ・パソコン人生の始まり
「自伝 青い地球とオレンジの花」を少しづつ書いていくことにする。「断章」として、記憶のあるところから書き綴ることにする。
30数年前、1980年代の半ば、時点は今となっては特定できないが、精神的に苦渋の日々、うつうつとした日々を過ごしていたぼくを見かねたのか、則子さんが「何か気晴らしをしたら?」という。それで「気晴らしを兼ねて、「青い地球」<注>を作るのに、ワープロで遊びたいな」と言ってみた。
則子さんが「いいよ。いくらくらい?」と言うので、当時、まだ発売初めの頃で、記憶装置は別になく、打っている画面上のROMだけという「キャノン・ワードボーイPW-10」という機種を、今はもうない連尺の伊勢屋という文具屋で買ってきた。
領収証が残っていて「昭和60年(1985年)5月23日 本体78000円、アダプター5000円、合計8万3000円」と書いてある。
「ワープロ」=「ワードプロセッサー」というのは今のパソコンにプリンターが合体していて、便利といえば便利だったと思う。
それが「ワープロ人生」の始まりである。その「キャノン・ワードボーイPW-10」は、いまでも「記念に」奧の部屋の本棚の一つに収まっている。
いまウインドウズで使っているワープロ「一太郎」を使い始めたのは、たぶん80年代の終わり頃だと思う。そのころに学習協の会議に参加し始めてパソコンオタクのYさんに出会った頃から、ボクはNEC9801を使い始めてワープロも「一太郎」に切り替えた。以来、30年の一太郎ユーザーである。あの使いにくいワードを何が好きで使わにゃならんのかボクには理解できない。ちらしも使い慣れた一太郎で創っていた。
当時はデータベースに一太郎グループの「桐 きり」を使っていたが、これはさすがに「エクセル」に切り替えた。
たぶん最初は、5インチの大きさのぺらぺらのフロッピーデスクを使ったと思う。その後、もう少し小さな3.5インチのフロッピーデスクの時代が続いた。
30年経ってみると、パソコンの記憶装置は100ギガを越えてしまい、普通に文章を保存するには十分となった。移動用のUSBメモリーも数十ギガとなった。
ただしボクたちのようにビデオ編集をしていると。それでも足りない。1日の撮影料が100ギガを越えることもあるから、因果な仕事である。
2017年で30年以上、ワープロを扱っていることになる。今は右手はマヒしていいるので、左手だけで文書を打っている。まだまだ文書ワークは続く。
<注> 「青い地球」 当時ボクが担当者で作っていた浜松市平和委員会の機関紙。1980年創刊。