『落葉松』「第2部 文芸評論」① 「「引馬野」の歴史的、地理的考察 1」
序
万葉集の中の「引馬野」については未だに定説がなくて、歌の中の「榛原(はりはら)」とともに、その解釈は二分している。
「引馬野」とは、万葉集巻一の五七の歌のことをさす。
「二年壬寅に、太上上皇の参河国(みかわのくに)に幸しし時の歌
引馬野ににほふ榛原入り乱れ
衣にほはせ旅のしるしに
右の一首は長忌寸(ながのいみき)奥麿(おきまろ)の歌」
元来、言葉は美しく、楽しいものでなければならないが、その解釈や読み方が定まらないということは、その美しさ、楽しさを半減させてしまうものである。
土屋文明氏は『万葉名歌』(現代教養文庫)で引馬野は三河の「御津海岸に当てる説が、近頃は信じられるようになった。」と述べ、『万葉集私注』(筑摩書房)で、「三河であろうが、浜松に較べて御津の方は資料が弱い。」とも述べている。
榛については、『万葉名歌』で「萩であるか、『はんの木』であるか、あるいはまた雑木であるかについて、事細かい論争が昔から繰り返されている。」と述べ、『万葉集私注』で「ハンノキの冬枯れが紅葉しかけた頃」と記している。(萩とは言っていない。)
「衣にほはせ」については、『万葉名歌』で「必ずしも染色の手段を経て、実際に着物を染めるというのではなく、花なり紅葉なりの色の美しい中に入って、その色を着物に美しくうつさせなさいという詩的感興なのである。」「染色上の実際の技術的問題を引いて、この歌から榛の問題を論究しようとするのは、議論としても見当外れであるばかりでなく、根本的において歌を誤解しており(中略)一首の主眼は旅行く引馬野に匂い栄える様の紅葉(萩の花ならそれでもよい)を見て、あの中に入って着物ごとあの色になりましょうと即興的に歌っているところにあるのだ。それを忘れて理屈めく解釈をしてはだめである。」と言っている。
古来、仙覚、契沖、春満、真渕、宣長等より近代に至って赤彦、茂吉外の学者によって『万葉集』は研究され、「引馬野」の歌の引馬野と榛についても各人各様の解釈がなされているが、何れも想像の域より出てはいない。
歌の鑑賞にはその詩的解釈の方が重要であって、歌に現れた人物、土地、植物などは、二の次になるのであろうが、その土地に関係した者になれば、凡人の悲しさで、歌の解釈より、地名や植物の判定がどうしても重要となってくるのは致し方ないであろう。
私は、昨年末、その曳馬の里に住みつくことになった。この機会に「引馬野」の歌について、少し感想をまとめてみたい。文明氏の意に反するが、理屈を述べてみようと思う。
( 続く )
序
万葉集の中の「引馬野」については未だに定説がなくて、歌の中の「榛原(はりはら)」とともに、その解釈は二分している。
「引馬野」とは、万葉集巻一の五七の歌のことをさす。
「二年壬寅に、太上上皇の参河国(みかわのくに)に幸しし時の歌
引馬野ににほふ榛原入り乱れ
衣にほはせ旅のしるしに
右の一首は長忌寸(ながのいみき)奥麿(おきまろ)の歌」
元来、言葉は美しく、楽しいものでなければならないが、その解釈や読み方が定まらないということは、その美しさ、楽しさを半減させてしまうものである。
土屋文明氏は『万葉名歌』(現代教養文庫)で引馬野は三河の「御津海岸に当てる説が、近頃は信じられるようになった。」と述べ、『万葉集私注』(筑摩書房)で、「三河であろうが、浜松に較べて御津の方は資料が弱い。」とも述べている。
榛については、『万葉名歌』で「萩であるか、『はんの木』であるか、あるいはまた雑木であるかについて、事細かい論争が昔から繰り返されている。」と述べ、『万葉集私注』で「ハンノキの冬枯れが紅葉しかけた頃」と記している。(萩とは言っていない。)
「衣にほはせ」については、『万葉名歌』で「必ずしも染色の手段を経て、実際に着物を染めるというのではなく、花なり紅葉なりの色の美しい中に入って、その色を着物に美しくうつさせなさいという詩的感興なのである。」「染色上の実際の技術的問題を引いて、この歌から榛の問題を論究しようとするのは、議論としても見当外れであるばかりでなく、根本的において歌を誤解しており(中略)一首の主眼は旅行く引馬野に匂い栄える様の紅葉(萩の花ならそれでもよい)を見て、あの中に入って着物ごとあの色になりましょうと即興的に歌っているところにあるのだ。それを忘れて理屈めく解釈をしてはだめである。」と言っている。
古来、仙覚、契沖、春満、真渕、宣長等より近代に至って赤彦、茂吉外の学者によって『万葉集』は研究され、「引馬野」の歌の引馬野と榛についても各人各様の解釈がなされているが、何れも想像の域より出てはいない。
歌の鑑賞にはその詩的解釈の方が重要であって、歌に現れた人物、土地、植物などは、二の次になるのであろうが、その土地に関係した者になれば、凡人の悲しさで、歌の解釈より、地名や植物の判定がどうしても重要となってくるのは致し方ないであろう。
私は、昨年末、その曳馬の里に住みつくことになった。この機会に「引馬野」の歌について、少し感想をまとめてみたい。文明氏の意に反するが、理屈を述べてみようと思う。
( 続く )